「神」と「人非人」について――太宰治による『ヴィヨンの妻』の視点から――
太宰治の『ヴィヨンの妻』における主人公である「私」(さっちゃん)の夫である詩人の大谷について作中では次の引用文のような人物であると語られている。
「(前略)だいいち、ご身分が凄い。四国の或る殿様の別家の、大谷男爵の次男で、いまは不身持のため勘当せられているが、いまに父の男爵が死ねば、長男と二人で、財産をわける事になっている。頭がよくて、天才、というものだ。二十一で本を書いて、それが石川啄木たくぼくという大天才の書いた本よりも、もっと上手で、それからまた十何冊だかの本を書いて、としは若いけれども、日本一の詩人、という事になっている。おまけに大学者で、学習院から一高、帝大とすすんで、ドイツ語フランス語、いやもう、おっそろしい、何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人で、しかし、それもまた、まんざら皆うそではないらしく、他のひとから聞いても、大谷男爵の次男で、有名な詩人だという事に変りはないので、こんな、うちの婆まで、いいとしをして、秋ちゃんと競争してのぼせ上って、さすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃる、なんて言って大谷さんのおいでを心待ちにしているていたらくなんですから、たまりません。(後略)」(太宰治, 『ヴィヨンの妻』, 青空文庫, 2011 より引用)
詩人の大谷は天才であり大学者、学歴も良好で語学も達者である「神様みたいな人」というように形容されている。また、女性にもモテる。
しかし、一方でそのような夫を持つ「私」(さっちゃん)とその幼い子供は貧乏暮らしを余儀なくさせられており、借金まである。その後、さっちゃんは健気に夫の借金の後始末をし始めるが、ついには強姦までされてしまう。そのような痛烈な逆境に遭遇することで、彼女は「神」への疑念を抱くようになる。
神がいるなら、出て来て下さい! 私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました。(太宰治, 『ヴィヨンの妻』, 青空文庫, 2011 より引用)
また、大谷には敵も多いようで、「エピキュリアンのにせ貴族」や「人非人」というふうに新聞に悪口を書かれてもいる。エピキュリアンとは快楽主義者のことであり、俗に刹那的な快楽を追い求める人のことを意味する。一方、大谷本人は新聞の悪口の真実性を否定しており、自身のことを「神におびえるエピキュリアン」であると主張し、「人非人でない」とも述べている。
夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」(太宰治, 『ヴィヨンの妻』, 青空文庫, 2011 より引用)
「神」に疑念を抱いているさっちゃんとは対照的に、その夫の大谷の方では神に対し「おびえ」を抱いていることが分かる。上記のような夫の言動に対する「私」の応答によってこの小説は幕を閉じる。以下の引用文である。
私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
と言いました。(太宰治, 『ヴィヨンの妻』, 青空文庫, 2011 より引用)
さっちゃんは上記のように、人非人であることそれ自体を「いい」というふうに肯定的に受容し、その目標として「生きていさえすればいい」というふうに述べている。
以上が、太宰治による小説『ヴィヨンの妻』のあらすじである。この小説は「神」に対して取りうる二つの態度のあり方を浮き彫りにしている。
一つ目の態度がさっちゃんのような神に対する疑念を基軸とするそれである。もう一つの態度が大谷のような神に対する「おびえ」を基軸とするそれである。
神は一般にも善きものであるとされる。そのように捉えるとすれば、さっちゃんは所謂「善きもの」と呼ばれるものに対する疑念を抱いているとも言える。そして、その疑念のきっかけとなるのは強姦という強烈な体験である。
一方、さっちゃんの夫である大谷の方では、この神、つまり所謂「善きもの」へのおびえを抱いているというふうに捉えられる余地がある。だとすれば、大谷は自身が「人非人」であることを口では否定しながらも、自分は人非人なのではないかという不安に苛まれている可能性を考えることができる。実際、作中でも大谷は借金などの後ろ暗いところがある人物としても描写されている。そうした背景が、彼に自身のことを「神におびえるエピキュリアン」というふうに語らせるのかもしれない。
また、大谷は、前述のように「神様みたいな人」というようにも形容されているが、そのような人物でさえもが実際には「神におびえるエピキュリアン」なのだとすれば、この世界にはいったい何が残るのだろうか?
「神」への疑念、そして「おびえ」、その先にたどり着いたこの小説の幕引きは「人非人」である「私たち」の肯定と、それでも「生きていさえすればいい」という、ある種の許しであった。