統合失調症は「治るべき」か?
「統合失調症は治るべきか?」というのは最大の難問の一つであると言えるかもしれません。
この場合、「統合失調症が治る」という現象が実際に何を意味しているのかについてよく考える必要があります。
まず、統合失調症と種々の天才には関係があり、統合失調症を治すという現象がこうした天才を破壊してしまうことをも意味するのであれば、統合失調症は治るべきとは言えません。
一方で、統合失調症を「活用」することで、ネガティブな影響だけを巧く制御し、その積極的な部分から生じる利益を生産できるようにすることを「治る」というのであれば(ドンブロフスキの積極的分離理論など)、無論、「統合失調症は治るべき」でしょう。
つまり、「統合失調症が治るべき」と言えるか否かについては、その時々の場合によって変わるため、一概には決定できないんですね。
以上のことから、結論としては「統合失調症は場合によって治るべき時と治るべきでない時の両方がある」と言えます。
ただ、統合失調症は絶大な苦しみを伴いますから、多くの場合では概ねで「治るべきである」とも言えるでしょう。苦しんでいる人を社会が助けないことは社会の公益に大きく反しますし、私たちは残酷であるべきでもないからです。
この議題に際して、最も大きいポイントはそれぞれの統合失調症の当事者の意見でしょう。基本的には、治りたい人は治すべきですし、治りたくない人は治すべきではないでしょう。無論、この時の「治す」という語義の意味合いは非常に不安定であり、その意味の決定は高度に状況依存的でもあります。ゆえにやはり、一概にその治療方針を断定することは難しく、ケースバイケースの精神が最も大事だと思います。一口に「統合失調症の治療」と言っても、その意義は様々です。その内容について安易に決めつけたり、その時々の正解を一つしか認めないような狭量な姿勢を持つことは非治療的であるばかりか、オープンダイアローグ的な観点から見ても著しく有害であるリスクさえもありうるように思います。私たちはもっと寛容に、謙虚な姿勢を持つべきであるとも場合によっては言えるかもしれません。
事実論としては、統合失調症は治る人もいれば治らない人もいますが、それも現在の理論の水準においてのことにすぎません。つまり、医療のレベルが上がれば、統合失調症はどんどん治りやすくなっていくでしょう。オープンダイアローグや中井久夫の理論などの発展はそうした「より良い統合失調症」、「健康な統合失調症」、「天才としての統合失調症」などを豊かに生み出すでしょう。こうした「環境」の調整によって個々の障害を克服する理論を「優境学」などと呼ぶ場合もあるのですが、これは「優生学」の反対の理念です。優生学は「劣等種」を殺戮しますが、優境学ではそれらを環境の力によって有効に活かします。無論、厳密にはこの世に「劣等種」など一つも存在しないのですが(笑) すべての生物はしなやかなレジリエンスを持っており、その生き抜く適応力は極めて強いものでもあります。
このように正統な理論に基づけば、世界の種々の殺戮や虐待が言語道断の不正であることは明らかです。すべての命は善きものなのであり、確かに愛すべきものなのですから。本当は、この世にダメなものなんて一つとしてないのです。すべてのものに豊かな機能があります。
みなさんのそれぞれの「才」が個性豊かに花開くように。祈ります。