死と排泄の感触
大好きな友人が死んだ。
55歳のまん丸なおじさんで
豪快に笑い、
魂を投げつけるように絵を描く人だった。
34年生きてきて、初めての友人の葬儀。
「死」はここに「生」を得た時点で向かう場所であり
理屈として理解していたつもりだった。
小さな葬儀場の中、
彼とはまったく似つかないお兄さんに導かれ
「最後のお別れです。」
と棺を開けてもらうと
そこに横たわっていたのは
もうただの抜け殻となったあの人だった。
その瞬間に、もう二度と会えないあの笑顔や
キャンバスに向かうでっかい背中が目の前に蘇って
ただただ愛おしくて、寂しくて涙が止まらなかった。
もう手の届かないところに逝ってしまったんだ。
その実感は深く突き刺さり
珍しく数日は思い出しては泣いていた。
この純粋な体験が
この次元に「生きる」ということを
深く再確認させてくれて、私は今このnoteに向かっている。
私は物を作る側に居たにも関わらず
正直、この物質で溢れた人間社会に嫌気が差していたような気がする。
自然や地球のことは好きだったから、なおさら
それを汚していく自分たちが心のどこかで許せずにいた。
音楽・周波数という世界への興味とともに
20代のある時期から精神世界や見えないものばかり追いかけてきた。
それは、見えない世界、違う次元への憧れのようなものだった。
そこからたくさんのことを学び身につけてきたけど
おかげで、物質についてはとても気難しくなってしまい
いざ物を作るときに理屈で考えすぎて
何かのブレーキがかかったように萎縮してしまっていた。
だけど、私が今生きて学んでいるのは
物質化することができる「この世界」のこと。
それはとても特別な学びであり、死んだらもう
こうしてキーボードを打つこともできなくなるのだ。
ネットワーク上にはいる。
だけどもうその手に振れることもできない死者たち。
私は、
・・・まだ生きている。
誰かを抱きしめる感覚
排泄する感覚
雨に濡れる感覚
何かを破壊する感覚も
創造する感覚も
何もかも、今だから感じられるすべて。
そんな生々しい感覚をこんなに愛してきたのに
根本の「この世界」の意味を曲解して
目を背けてきたことに今気づいた。
みえない世界への羨望や興味はこれからも尽きないけど
追い求めなくともそれは自然とシグナルをくれる。
今、目に見えて手に届くことが私に必要なピースなんだろう。
そもそもここに居られる時間はとても短い。
55歳の彼は、絵の具を撒き散らしながら絵を描き続け、
世界を好きなように塗りたくり、タバコを咥えて
銀歯を光らせて全開で笑ってた。
全力でこの物質世界を楽しんだように見えた。
それがめちゃくちゃかっこよくて、
今もその生き様が目に焼き付いてる。
夢から覚めたように
私はこの世界とやっと折り合って着地した。
このチャンネルでしかできないことってなんだ?
もっともっと感覚を
生々しく握りしめて行こう。
汚れてもいい、乱れてもいい。
粉々になるまでぶつかって生きよう。
あの人のように。
昨日とは全く違う世界がここにある。
こうして私の世界は変容していくんだな。
私ってのは変わらない。
見え方が変わってくだけ。
まるで一新されたように。
新しいnoteにふさわしい朝だ。
今日は新月
「新しい」はいつも目の前にある。
MAW