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本当の意味で環境問題(社会課題)を解決するってなんなんだろうか。

私はこれまで、「社会課題の根本原因を解決すること」に強い関心を持ち、その実現を目指してきました。根本原因の解決には超絶的なスキルが必要だと理解しつつも、それを追求することに価値があると考えています。

社会課題の根本原因の解決とは、問題の「負の原因」を特定し、それに対して「持続可能な解決策」を提供することです。この負の原因を人間レベルにまで落とし込むことで、対象のニーズを明確化します。一方、持続可能な解決策とは、価値が循環し続ける仕組みを作ることです。その最も分かりやすい形は、事業として成立し、誰かに価値が届き続ける状態です。これにより、解決策が属人的でなくなり、創始者がいなくてもビジョンが持続します。

ただし、つくづくこの負の原因ってなんだろうって、日々壁にぶち当たります。なぜなら良かれと思ってやることが、自分たちが考えていた負をさらに押し広げてしまう場合もあるからです。

例えば、道端の缶を拾ってポイ捨ての問題に貢献したい。ということをやる。街は綺麗になった。非常に良いことだ。その反面、困る人も出る可能性もある。なぜなら、その缶を拾って生活を立てている人もいるし、地域の清掃員として雇われている人がいて、その人の仕事を奪うことになる。

善意が人を困らせてしまう。だからこそ、本当にその行為が負の原因を解決するものなのか、考えないといけない。

別の例えとして、ビーチクリーン。あるビーチクリーンイベントに参加した事がある。砂浜のゴミを拾った。素晴らしい。海に再び飲まれてしまうゴミを減らせたかもしれない。将来世代に渡るマイクロプラスチックの量を減らせたかもしれない。とてもいい取り組みだと思った。だがしかし、拾ったゴミは袋にまとめられ、ゴミ処理施設へと運ばれた。運ばれたゴミは焼却され、CO2となり、地球温暖化の微力な貢献へとなった。

なんか惜しい気がしている。僕らの善意は少しばかりの悪を孕んでいる。

レジ袋じゃなくマイバックを持ってきたんだ。このマイバック、長く使ったからそろそろ買い換えよう….。いいんだ。でもマイバックを1つ生み出すのに、レジ袋50枚分ぐらいのコストがかかっているんだ。50回以上そのバック使っていますか?

もう一つ例を。

ボラティリティの話をある私の先輩から聞いたことを鮮明に覚えていて。ボラティリティとは、一般的に金融の分野で価格変動の度合いをさすけど、社会課題においてはエフォートの変動に置き換えて考えることができる。

社会課題を語る上で、ボラティリティを引き合いに出す例として、子ども食堂がある。無論子ども食堂は素晴らしいものだし、リスペクトしている。しかし、リスクもあることを理解しておく必要がある。例えば、ボラティリティが低い場合、一定の力で食堂が運営されるため、安定的に子どもは食にありつくことができる。これはとてもいい状態だ。しかし、ボラティリティが高い場合、極端なことをいうと、この日は人手が足りなくてとか、食材が集まらなくて休業、この日はキャビア大盤振る舞い。のようなことが起こる。結果として、休業の日に食にありつけない子供ができたり、大盤振る舞いの日に非常に美味しい食事にありつけるかもしれない。そうすると、新たな不公平感や、知ってしまったことに対して苦しみが生まれてしまうかもしれない。特に、予算を捻出できなくて継続的に食堂を開けない場合は深刻だし、どうにかしたい。

いくつか例を出しているが、以下の記事も興味深いなって。アフリカに対して洋服を寄付したせいで、アフリカの線維産業が死んだ例でして。寄付というボラティリティが高い行為が帰って負の状況を生み出している。良かれと思ってやっていることが、実際は危険を生み出していたりする。

いくつか例え話をしたが、言いたいことは「本質的でない社会課題解決」から「本質的な社会課題解決」をやる人を増やしたいということ。言い換えると、「善意」を持った人たちが取り組むことを「本当にいいこと」に変換したい。

共感していただけた方(学生、社会人問わず)はぜひお話しさせていただきたいです!こちらよりお待ちしております。


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