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なんで大学へって考えたけど結局よくわからん話。
なぜ、大学に行くのか。そのために勉強するのか。
いやあ、確かになあって思って。
僕は大学で研究したかったけどでもそれって漠然とした目標だし。よくよく考えてみるとそれはほんのモチベーションの一部でしかなかった気がする。
でも、自分は受験勉強に熱狂的だった。浪人までした。なぜそこまで熱狂的だったかというと、他人に負けたくなかったということだけだったと思う。もしかしたら、当時の自分の状況を書いてみると何かわかるかもしれないので、書いてみるか。
2019年3月私は、二つの私立大学への合格をした。が、自分はその選択に納得いっていなかった。同じ高校の人よりも偏差値の低い大学へ行くのが嫌だったし、そういうレッテルが貼られるのは嫌だった。
結果、浪人を決意した。第一志望には受からなかったが、いい結果をもたらした。これが2020年3月。当時の自分の気持ちは、戦いは終わった。もうこれ以上はできない。だった。
3月はとりあえず一人で気分転換してた。当然卒業旅行など行けなかった。みんなは気を遣って誘わないようにしてくれていたんだと思う。悲しい。3月は誰とも遊ばなかった。一人でひたすら。大学ではなく予備校周りをしていた。ありったけのお金を持って、毎日大好きな寿司を食べてた。それしかやれることがなかった。正直不安でしょうがなかった。でも自分が納得できない大学に入ることも嫌だった。あの時の絶望感はもう思い出したくない。中学校の先生が「生涯で3回は勝負する時がくる。」と言っていたが、これからその一回目が始まるんだと。そんなことを思っていた。
今でも振り返ると非常に厳しい一年間だったと思う。お金は親にお願いすれば貰えたけど、申し訳なくてあんまり貰えなかった。自分のためていたお年玉を少しづつ切り盛りした。朝6:00には家を出て、満員電車に乗って予備校の最寄り駅へ、7:30には近くのマックでコーヒーを飲んで勉強(これが唯一の至福の時間)、8:00に予備校へ行き、お昼ご飯は毎日コンビニの生活、夜21:00まで勉強し、家に帰って23:00。時間数は15時間ほど勉強していた。でも今考えれば、全く頭が回ってなかった。明らかに睡眠不足だったと思う。
5月に当時の彼女と別れ、完全に受験に集中する道を選んだ。かなりひどい別れ方をしてしまったので、いまだに音信不通だ。そこからというもの、この一年間は人と話さなかった。大体両手で数えられるほどの人としか話してないし、とにかく社会と鎖国した。どれぐらい鎖国したかというと、その年にヨアソビというものが流行ったらしいけど、僕が大学に入るまでその曲を知らなかったレベルで。ありとあらゆるカルチャーは捨てた。めちゃくちゃ後悔しているけど、予備校の人ともほぼ話さなかった(せっかくだから仲良くなっておけばよかったけど)。その時あたりから、フィクションが見れなくなった。今の自分とあまりに乖離していて、怒りが湧いてくるからだ。
7月ごろ、予備校の前期の授業が終了したと思う。夏に入った。この時あたりから、大学へ進学した同級生の浮いた噂が耳に入ったため、さらに鎖国した。(ある意味この時静かにほっておいたおとももちたちには本当に感謝である)。でもとっても悔しかった。楽しい生活をしているんだみんな。でも自分はこんな一年を過ごしているんだ。非常に悲しかった。でももう逃げ道がない。今は頑張るだけだ。来年の1月がとっても怖かった。電車に飛び込みたかった気もしたが、親の顔が浮かんだり、まだ死ねない。という想いがまだあって、踏みとどまれた。
8月ごろ、ストレスから来たのか、皮膚の調子が異常に悪くなった。顔にニキビが大量にできて、到底自己治療できるものではなくなってしまった。そのため、皮膚科に行った。これは現在も治療している。多分当時毎日コンビニ弁当みたいな生活をしていたのも悪かったと思う。時折、弁当を作ってくれていたかな。夏の終わりに上がる花火が自分の心を苦しめていた。
9月ごろ、後期の予備校の授業が始まったと思う。皮膚が治ってきた。かなり勉強に集中できる。この頃は非常に調子が良かった。模試の結果も非常に良かった。ただ、この時かなり限界も来ていたかもしれない。精神的な辛さを感じた。いじめも受けた記憶があるがあんまり覚えていない。いじめられたって誰とも繋がりのない自分は何も感じなくなった。あるのはただ、悲しみだけだった。
10月ごろ。この時期か忘れたけど持参していた水筒が腐った。なので、腐った水を一週間ほど飲んでいた時期があった。まずかった。あと金もあんまりなかった気がする。自分が申し訳なくて、受験に何百万突っ込んでるんだって。虚しい気持ちになり、せめても自分の食費ぐらい削ろう、こんな自分の食べ物なんてどうでもいいだろうと思った。当時の、99円のクリームパンのレシートがそういえばどこかに残っている。これが僕の毎日の昼ごはん。ひどい時は、ゼリーとサプリだけで生きていた。
11月ごろ。この時期あたりから焦りがあった。なかなか点数が伸びない。徐々に迫ってくる受験を前に自分がこうありたいという理想と、現実のギャップが目の前に明確に見えてくる。このままではまずい。焦りが生まれた。精神が崩壊しているものもいた。階段でキスをして倒れ込んでいる人とかいた。応援してくれるのは家族だけ。だけどその家族に迷惑をかけてしまっているんだ。怖かった。
12月ごろ。唐突に泣き出す子とかいた。受付の前で泣き出して過呼吸になっていた子はめっちゃいた。自分も釣られそうになった。クリスマスは泣いて帰った。というかここら辺はもう毎日帰りは泣いてた気がする。私は原付バイクで駅から自宅まで行っていたので、その時に”月月火水木金金”を歌いながら、涙して帰るのだ。とにかく自分を洗脳していた。そうでないともう気がもたなかった。
1月から2月にかけて断続的に受験した。初めの合否の発表はセンター利用だった気がする。トイレの個室で合否を見た。そこが唯一一人になれる空間だったからだ。センター利用は通った。しかも、学費免除もいただけたし、昨年度よりもいい大学だった。ひとまず嬉しかった。とりあえず大学生にはなれるんだと。もう一年やることはないんだと。
次の合否は某私大トップクラスの大学だった。ここも合否を見たのは予備校のトイレ。一つは落ちたが、一つは受かった。ここは国立が落ちたらもうそこに行こうとしていたので、良かった。涙が止まらなかった。そして安堵した。助かったと。浪人した意味があったんだと。その後は国立前期で合格。第一志望は出せなかったが、今の大学入学へつながった。終わった。全てが終わったんだ。もうやり切ったんだと。一週間はものすごく寝てた気がする。
でもここからもきつかった。自分が過ごせなかった一年はもう戻ってこない。2020年3月、私は初めてInstagramというものをインストールした。今も付き合いのある素晴らしい友達に教えていただいた。高校の友達をフォローするように教えられ、ひたすらに懐かしい人たちをフォローした。
もう一度いうが、自分が過ごせなかった一年は戻ってこない。この一年で同級生がどのようなことをしてきたのか、Instagramを見ていた。気持ち悪いかもしれないけど、彼ら、彼女らが、制服ではなく私服でいろんなことをやっていたのはすごい新鮮だった。制服の彼らで時が止まっていたから。同時に悲しくなった。誰と誰があの後付き合ったとか、誰がこんなことに挑戦したとか。一年でこんなに変わるんだって。その時間を自分が共有できなかったことが本当に悲しいし、今でも後悔している。さらに、鎖国していた自分は言葉が出なくなっていた。思うように会話ができない。人と話す時どこ見ればいいんだっけ。
実はこの後悔は社会的な影響も大きかった。2020年の3月はちょうどコロナウイルス蔓延の時。でも、取り戻そうと色々チャレンジした。でもこの一年の差は大きい。ファッションも高校の時で止まっている、考えも、思想も、できることも、追いつけなくて辛い。大学での研究のチャンスと学歴は手に入れたが、その他のことはかなり失った。とにかくコミュニケーションが取れない。みんなが言っているアイドルの名前とか、曲とか、流行りのことが全然わからない。どうしたら。
そう、学を手に入れた代わりに19歳のかけがえのない時間と感情を失った。
勉強しかできなくなった自分は、勢いそのまま、大学一年は破竹の勢いで勉強した。大学の中ではかなり上位のGPAを叩き出していた。というか大学にはコロナで行けなかったのでそうするしかなかった。大学二年生で彼女ができた。愛に溺れた記憶がある。人とのふれあいに感動した。ただ、19歳の恋愛ではない、なぜかやはり失われた時期の感情が引きずられている。その後別れる。
なんか覚えていないが、その頃今までの自分を振り返り、ひたすら泣いていた。もう自分は自分の力で生きていくしかないと思い、この頃から起業を志した。22である。遅いな。もっと早くそういうこと考えれば良かったのに。この頃発生してたオーストラリアの森林火災を見て、環境分野に興味を持った。(元はもっと昔から社会のことには興味があった。)
そこからの自分は死ぬほど働いた。お金も必要になったので、朝4時からの倉庫バイトで汗を流した。重労働のため10kgほど体重が落ちた。バイトが終わったらそのまま大学、23:00ごろ帰宅の生活を繰り返した。社会課題の貢献のため学外の活動に参加し始めた。長期のインターンもやり始めた、この時大学三年の後期ぐらい。死ぬほど何かやってた。そして案の定救急車に乗った。ああ。自分はこんなことしかできないのか。もっとみんなみたいに楽しい生活をしたかった。かけがえのない時間を得たかった。普通でいたかった。
そういえば、ここら辺で、他人軸の価値観から自分軸に変わった。自分に諦めがついたというか。もう自分はみんなみたいな思い出を得ることはできないんだ。普通でいることは自分には合わないのだ。Yohji Yamamotoに憧れを持ったのはこの時期から。「みんな違ってみんなどうでもいい」という落合先生の言葉も刺さった。もう俺だけの世界観を作ろう。そして、社会にインパクトを出そう。
大学4年はひたすら研究した。フリーランスとして案件も獲得できるようになった。学会にも行った。論文も書き始めた。学生向けのビジネススクールにも通い始めた。
今は大学院の一年生。もう死ぬのがあまり怖く無くなってきた。「もうつかれた!死ぬ!」これが理想。(ここら辺もかなり変化があるが割愛)
で!結局何が言いたいかというと、こんな俺みたいな生活をしてほしくないが、僕と似た状況にある方は、困ったら楽に生きればいいし、連絡してくれればいいし。
目の前に辛い状況があるかもしれない。でも、無くしていけない感情がある。一つは親が自分を産んでくれた瞬間の顔や、愛情を感じた瞬間の記憶、もう一つは「まだ死ねない。いつかは自分が。」と思う反骨心だ。自分を洗脳させて戦う。なんでもいい。自分がすがれるものや想いや志が必要だ。
自分はやりたいことがないっていう人がいるかもだけどそれに気がついていないだけだ。絶対何かあるし、出会っていないだけかもしれない。たくさんの情報と人に会おう。鎖国なんかしちゃダメだ。自分のアイデンティティを確保するために闘おう。他人軸はアイデンティティを確保してからこそ、自分軸で何か物を見れるようになる気がする。とにかくポジションを取ろう。自分を一言で表現し、それが世界唯一のものであることを主張しよう。数値的な観念に囚われてはダメだ。それぞれのオンリーワンを目指して、アイデンンティティを獲得しよう。
アクセプトインターナショナルの上映会で、印象的な言葉がある。
「今日は僕じゃなかった。じゃあ明日も頑張ろう。」
今日は俺、死ななかった。明日も頑張れる。「もう疲れた!死ぬ!」を目指して頑張ろうって。
つづく