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じっくり、のんびり、言葉を溜める。

お茶を汲む。食堂の奥の給湯室で、私は抱えるほどの大きなやかんにお茶を沸かしている。毎週火曜日、お茶当番の時間は私の憩いのひと時だ。
今どき女性にお茶汲みをやらせるだなんて時代錯誤だ、なんて言われるかもしれないけれど、私としてはこの程度のお仕事で給料が発生するのなら願ったり叶ったりだ。まさにお安い御用、ってやつ。

お茶が沸くのを待つ間は、Twitter(あ、Xになったんだっけ)を眺めたりnoteを書いたりしながらぼんやりと過ごせる。これ、勤務時間でいいんですか? こんなことをしていても一人きりの給湯室、咎める人は誰もいない。私は週に一度の合法自由時間を、存分に堪能している。正直仕事を舐めている。


それにしても、と顔を上げる。どうやら私は今、筆が乗らない時期らしい。というか、気持ちのベクトルが書く方向に向かわない。書けなくはないけど、進んで書きたいと思う衝動が減った。
いつもならこうしてお茶を汲んでいるとき、たぷたぷと注がれるお茶とともに言葉が脳内に溢れてきたものだった。それが今、ぱったりとなくなっている。

先月、今までにないほどに活動的だったのが原因なのだろうなと思う。私は過去最長2万6000字もの小説を書いたうえに、もう一本5000字ほどの短い小説を投稿した。あのときの私は、書こう書こうと自分を急かしていたのはもちろんのこと、不思議と言葉がわんさか飛び出してくる時期でもあった。苦労して書いた分、出し尽くしてしまったのかもしれない。

言葉は、有限だと思う。森羅万象を表現するには言葉があまりにも足りないし、それだけじゃない、人ひとりの心の中に留めておける言葉にだって限りがある、そんな気がしている。

今の私は、内に溜め込んでいた言葉をありったけ解き放って、空っぽに近い状態になっている。そして書くために必要なアンテナ、身の周りのすべてに対する感性みたいなものも、どうやらひと休みしているらしい。

こういうとき、無理に足掻いても何も出てこないと、何度も波を経験してきた私にはわかる。そしてこのまま一生書けなくなるわけではなく、一時的なものでそのうち波は気まぐれに戻ってくるということも知っている。そういうものなのだ。昔から書くことが生活の一部だった、けれど所詮一部にすぎなくて、これがなくても私は生きていけるし、逆にこれがないと生きていけない時期もある。それだけのことだ。

定期的に訪れるこの状態を静かに受け入れるようになってから、私は書ける時期により書きやすくなったような気がする。たぶん、身構えない方がいい。そして焦らない方がいい。そうすればフラットな気持ちで自分の書きたい気持ちと向き合えて、自然に出てくる言葉の量が増えていく。

大きなやかんから社員用の普通のやかんにお茶を移し終え、ふうと息をつく。きっと、大丈夫だ。目の前にあるものと感情に任せて揺られていれば、大抵のことはなんとかなるものなのだ。だから週に一度の頻度は保ちつつ、気が向くまではじっくり、私の内側に言葉を溜める期間にしていこう。


というわけで、完成した本の販売準備を進めていこうと思います。今回通販するのはこちらの2冊。できてるんです、できてるんですよ。

食べものエッセイ集。
大学時代の日常を詰め込んでいます。
短編小説。去年の創作大賞応募作です。

どんだけかかっとんねん案件ですが、さすがにお盆休みを利用してお店開きをしていきます……。もはや時間が経ちすぎてなんの話や?という方はこちらをご覧ください。

残る1冊は次の文フリか何かのイベントで新刊として出すかもしれません(怠惰)。そしてなんなら次の新刊準備も進めたい!頑張ろう。

もしよろしければ、次のお知らせをお待ちください。

(追記)↓通販、はじめました。

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。