「愛の不時着」
その時が来た。
ほとぼりが冷めて『愛の不時着』を観た。
はじめの数話観て、「韓国ドラマはいつの間に、こんな重層的な物語を作るようになったんだろう」と思った中で、作中に『天国の階段』がチラリと話題に上がる。
夕方の土曜か日曜にフジテレビで放送されていたのを「何となく」見はじめて、何気に毎週楽しみにしていたことを思い出した。よく泣いているし、記憶無くすし、感情表現が大きいし、「物珍しさ」が先行していたと思う。話の筋はほとんど覚えていない。「韓流」というイメージの作品だった。あれから20年?(きみまろみたいだ)
洗練、多層化した「韓国ドラマ」はコメデイ部分で大袈裟さは見られつつ、「愛の不時着」というタイトルの「意味」の取りようが色々あるように思わせる「余白」がありつつ、南北朝鮮の問題を「政治」面をあまり意識せずに見せる巧さがあった。
少なくとも日本に住む中で「北朝鮮」はマスメディアが報道する深刻な政治的側面がクローズアップされる。そこで暮らす2人称的な面はなかなか想像しにくい。
「愛の・・」では北朝鮮でのシーンはある意味、「郷愁」を誘う場面として描かれる。3丁目の夕日的な。「ポン菓子」(リアルタイムでは見たことない)や竈門で料理をする。停電が日常、井戸端会議の「田舎的煩わしさ」と「お節介」とたまに「互助」の両義的側面がコミカルに描かれている。不時着した「ユン・セリ」は韓国での愛情の通わない家族や生活で不足している「安全基地」を図らずも遭遇した北朝鮮の村で「安全基地」を獲得していき、食欲旺盛になって「健康的」になっていく。(この描写も「愛着障害」の克服という視点から見ると理にかなっている。暗に、主人公にこのような振る舞いをさせるということは、韓国もアジア的な密着関係が薄れて「愛着障害」が顕在化しているのだろうか)
庶民の実情は、知らないが案外劇中のような暮らしをしてる部分があるのかもしれない。だからこそ今も体制が続くんだろうなと。
場面転換も印象的であった。北ではリ中尉がセリを助け、南にリ中尉がセリを守るために来た際人は、逆にセリがり中尉を助ける相互転換な展開が、流行りの?平等感がある。
あとは、韓国ドラマ伝統?なのか、「邂逅」というか「実は知るより前に実は出会っていて・・」という流れ。これは、現実の感覚的に「ある」からドラマで「戯画化」して「そんなご都合主義あるかい!」とツッコミをしつつも、期待している自分がいる。
色々とてんこ盛りな作品だけれど、ネットフリックスではCM無しで60〜80分ぶっ通しでなら自然にまとってすんなりと見ることができた。
軽く、ロスになった。(もう一回観ればいいんだが)