何が大事か

六芸の「礼」岡潔の「情緒」、愛着・・・ニーチェが言ったように「神は死んだ」のを境に、イワン・カラマーゾフが「機能としての神は信じるよ」と悟っちゃったことを境に「礼」や「情緒」「愛着」の問題は生じはじめたように思う。もちろん、ブッダのころから愛着障害はあった訳で、それが限定的なものではなく、広く発症しはじめたのは、神が死んだころ。言ってしまえば、ヒューマンスケール(人間の力ではとうてい出せないエネルギー、仕事をするものが現れたころ)を超えた産業革命以降、各国がその恩恵をあずかり、泥沼の世界大戦で大量破壊をしていく過程で進行していき、今の5Gの世界と相成りました。

失われた時を求めて、安易な復古主義ではダメだろうか。哲学、思想、芸術、科学理論にしろ新しい視点を獲得するためには、今まで使っていた理論なり、クセでやりくりしていくしかない。「考える」と一口に言っても、自分が使いやすい母語なり言語という縛りがあるように。今は専らエビデンス主義(そんな甲殻類🍤が好きなのだろうか)科学的なレールに乗せて情緒や愛着の重要性が広く知れ渡ればよいのだろうか。

「園長は真言宗の尼さんであるが「幼稚園はまだ人をつくるところで知識を教えるところではありません」と堂々といっておられる」 『紫の火花』(岡潔 朝日文庫 p94)

「 「見えない発達」は、最近では「非認知能力」と呼ばれています。国立教育政策研究所などの機関でも非認知能力いついての研究が行われていて、ここ数年、保育の研修や勉強会で耳にすることも増えました。「非認知能力は心の土台だからしっかり育むように」って。私としては「あら、これ、何十年も前から子どもたちに身につけてもらおうとしていた力のことじゃない」なんて思いますけどね。」( 『92歳の現役保育士が伝えたい 親子で幸せになる子育て』 大川繁子 実務教育出版 p112)

非認知能力。エビデンス語だとそういうのかもしれない。要は、愛着であり、情緒であり、礼だと思う。それらは「安全基地」が機能することで、涵養される。その安全基地が、どうも安全ではなく、しばしば危険な紛争地帯となっているのが21世紀で、情報化時代の、5Gだの、シンギュラリティだの、自動運転だの言っている世界の真相の一端ではないか?

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