2種類の気づきとは〜能動的な気づきに必要なこととは〜
気づきとは
今まで生きてきて経験したことをとおして、
その行動や結果の持つ意味を見いだすということ。
それらの点と点を線で結んだ時に示される、より大きな視点で見えてくる意味や価値のことであると解釈しています。
失って気づく
それは、何かしら大きなイベントを通して、それまで存在していたものの存在価値に『気づく』ということだと思っています。
大切な存在を失う、
大切なものをなくす、
職責を離れる、
それまで自分が手にしていたものの価値は、手にしている状態の時には意外と気づかないものです。しかし、一旦それが自分の手から離れた時、一気に『それが無い』状態に意識が向くことで、そのものの価値にフォーカスが向きます。
そのものの価値に気づくと言うことは、そこにフォーカスが向くという事です。そしてそのものの価値に直接フォーカスが向くのではなく、まずは『それが無い』ことにフォーカスが向くのだと考えています。
感じて気づく
これは、今まで経験してきたものの"点"たちが、何らかのきっかけによって"線"で結ばれる現象であると解釈しています。
『幸せは、何かを得ることよりも、そこに既に在るものに気づくことの方が大切である』と言う気づきは、ものごとの解釈によって感じ方が異なると言うことを気づかせてくれます。それと同時に、ものごとは誰にでも公平に目の前に横たわり、それを幸せと見るか無関心の態度を取るかは、個人次第であると言うことも併せて気づかせてくれます。
つまり、幸せな出来事が起こるのではなく、起こった出来事を幸せとしてとらえる事ができるかの方が重要になってきます。
自分から気づこうとするか
そのためには、待っていても"気づき"はやってきません。自分でアンテナを張り、一つ一つ解釈をし、それを積み上げることが大切になってきます。
自分の常識を疑う
気づきとは、捉え方を変えれば自分の常識を覆すと言うことだと思っています。
今まで自分が思っていたこと。それがある経験によってそれが覆されること。そこに気づきがあります。
自分の常識の範囲内で、それのみを判断基準にしていては、気づきは得られません。
なので、自分から気づこうとすること、そして自分の常識を疑うことで、新たな知見を得ることができると同時に、新たな気づきを得ることができるのだと思っています。
今回は『2種類の気づきとは〜能動的な気づきに必要なこととは〜』について書かせていただきました^ ^
また、あした🌟