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概念を通さない。

葉山の海岸沿いを散歩していたら、ふと、表題の言葉が口からぽろっと出てきた。僕が作品の創作で無意識に大切にしていたらしいことだった。

僕たちは、概念を通し、またモデルを通し、何かを理解する。それが人間に与えられた思考する力であり、想像する力た。ただ、こいつはやっかいなもので、大いなる可能性とともに、現実を見れなくする難しさもはらんでしまう。

概念に象徴されるものは(言語、概念、モデルなど)、それそのものを本来あらわさない。常に、現実から情報量を削減したものでしかない。人間は複雑な情報や複雑性そのものを理解できないから、情報量を減らし、理解可能にする。だから、これら(言語、概念、モデル)が重要視される。

それはそれで素晴らしいし、僕も(言語、概念、モデル)は大好きだ。でも、人間の難しさは、現実そのものを表さない、(言語、概念、モデル)を現実だと思いこんでしまうことにある。現実で世界が構成されるのではなく、(言語、概念、モデル)で世界を構成してしまう。

つまり、現実を生きているのではなく、脳の中の現実を生きている。

現実・現象よりも先に、(言語、概念、モデル)が存在する。さらには、それ自体が正しさを帯びてしまい、現実との主従関係が逆転してしまう。人間のいう、「意味」や「目的」もそうかもしれない。現象よりも先に意味がうまれ、現象よりも先に目的を存在させてしまう。

そこに微細なズレが生まれて、チリツモで蓄積し、歪みになっていく。そんな中、僕はこの世界の現象・現実自体を、体験したいと思っているのかもしれない。その目的は?とか、意味は?とか言われてもよくわからないけれど、恐らく、単純にこの世界のことを知りたいし、それが楽しいと思っているからだ。この世界の認知を更新すること自体が、無性に楽しいのだ。

ということで、「概念を通さない」が、僕の関わる作品での、創作の重要な観点のひとつなのかもしれない、ということに気づいた朝だった。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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