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自分のための言葉。人のための言葉。
周りは、文字だらけだ。いろんな人が、いろんな言葉を書いている。
僕は、10年以上、誰にも読まれないような記事を書いてきた。当時のコンセプトは、いつか生まれる息子のために。父が、僕が1歳半の時になくなっていた。父は、実家と絶縁状態であったり、仮名で生きていた時期もあるらしく、物心がつき、父親のことを知りたくなっても知ることが出来なかった。息子にはそんな想いさせたくない、そう思って書き始めたブログだった。
長年書いてきて分かったのは、僕が書きたいように書く文章は、恐ろしいほど人に届かないということ。昨日も、"自分が作品を創っているようで、作品に導かれるような身体感覚について。"という記事を書いた。悲しいほどに、理解されないし、伝わらないし、届かない。
一方で、読み手のことを深く考え、読み手の痛みに寄り添い、リサーチをしっかり行い、伝えるべきメッセージをクリアにした記事は、届く。僕でいうと、パパ育休関連の記事は、よく読まれた。
読まれると嬉しいし、"好き" が集まると嬉しいし、反応があると嬉しい。せっかく書いたのだから、人に届いてほしいし、人に読んでほしいと思う。一方で、ふと思うことがある。
そもそも僕は、人のために文章を書いていない。昔は、いつか生まれる子供のために、というコンセプトだったが、息子が生まれた今となっては、自分のために言葉を紡いでいるに過ぎない。
そして思うのは、今言葉がすべて、人のための言葉に成り下がっていないか、ということだ。人に届ける言葉しか存在しなくなってはいないだろうか。誰にも届かないけれど、自分のためだけの大切な言葉が失われてしまってはいないだろうか。
もちろん、言葉は、人同士が共有できる、人類の発明だ。でもだからといって、自分のための言葉をなくす必要は本来ないのではないか。自分のための、自分だけの言葉。そういったものがあってもいいじゃないか。
息子と猿を見ながら、そんなことを考えた週末だった。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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