自分が作品を創っているようで、作品に導かれるような身体感覚について。
作品を創る営みを初めて3年が経過した。
それまで、ソーシャル領域、コンサルティング領域、戦略デザイン領域の仕事に従事していた。傍からみると、新しいものを作っている、創造している、と思われていた。けれど、上の3領域と作品を創る営みは、まったく別の体験だった。
1つ目の大きな違いは、「自分が何を作ったのかが分からない。」ということ。意図を持ち創造行為をしているにも関わらず、最終的に生まれたものは、なぜそれなのか、それが何なのか、説明ができないのだ。
ソーシャル、コンサルティング、デザインは領域を問わず、基本的には解決すべき課題を定義し、それを解決する上でインパクトの大きい施策を立案する。つまり、なぜその施策なのか。明確な説明ができる。
しかし、作品においては、本当に、何を作ったのかが分からない。いまだになぜそれをやっているのか分からない、というものばかりなのだ。
2つ目の違いは、受け取られ方がまったく予想できない、ということだ。作品を体験した人が、「最近、家族が病気で、人生の意味について考えていたんだけど、今日体験して、ふと、人生に意味なんてないと思った」という反応が帰ってきたり。作品を体験し、「小さい頃のことを思い出したよ。」と、号泣している人と出会うこともある。
正直、何がその人たちに起きているのかまったくわからない。僕自身が、"鏡" となるような作品を志向していることもあるが、まぁ、とにかく、予想も意図もしていなかったことが起こる。
3つ目の違いは、"自分が創ったはずの作品に導かれる" という感覚に誘われること。これは、「1」と「2」が組み合わさり、生まれる感覚である。自分自身何を創ったか分からないし、予想できない方向に受け取られる。
しかし、その受け取ってもらった声を丁寧に聞いていると、"あぁ、こういう作品なのかもしれない" という感覚が生まれる。さらにその先には、"なんか、この先、こんな作品作らなきゃいけない気がする" とか、"この作品、こっちに行きたがっている気がする…" と、自分が作品を創っているのではなく、作品に自分が導かれていく、ということが起き始める。
これは、本当に不思議な現象である。でもぼくは、これが創造の醍醐味だと思う。そう、僕にとって、創造とは、作品に導かれ、想像の外に連れて行かれてしまう、冒険のようなプロセスなのである。
「創造的に生きる」というプログラムでも、本質的に届けたい体験とはこういう体験なのかもしれない。作品を創っているようでいて、作品に導かれていくように。人生も自分で創っているようでいて、人生に自分が導かれるような感覚。
このダイナミズムと喜びを沢山の人に体験してほしい。それが、僕が芸術家として生き始めて3年。自分が体験したことだし、沢山の人に届けたい生き方なのだ、と改めて気付いた夜だった。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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