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共に目撃する装置としての "芸術"を求めて。

心に傷がつき、癒やしの過程にいる。

今日は沢山の人に相談をした。沢山といっても、深く、深く、孤独感や、作品と出会うことの意味を分かってくれる、大先輩、尊敬する友人、仲間たちだ。そこで、画家の尊敬する友人からアドバイスを受けた。

彼がいうに、「世の中の人が思う"アーティスト・芸術家" の意味と、こうすけの使っているその言葉の意味は違うよね。だから、ズレが起きてるんじゃないかあ。」ということだった。僕はそもそも、その分野の人間ではないし、元々の意味も知らない。

また、「"作品" と呼ばれるものも、生み出すものとしているのか、享受しているのかで、圧倒的に世界観が違うから。」と言い切り。更に、僕のいう芸術とは、「共に目撃する装置としての "芸術" だよね。」と言われた。

まさにそうだった。作品が生まれてくるということ、そこにある現実と出会えるということ、それを "作品" を介してその現実に触れることができるし、"芸術体験" を通して、共にそこで現れる現実を体験、目撃することができる。

科学 / science は、理論を通じて世界と交わる。宗教 / spiritual は、経典を介して世界と交わる。芸術 / art は、作品を通じて世界と交わる。僕は、この "作品" を通じて世界と交わることを選んだに過ぎない。

そういう意味なのだ。そうした時に、なぜ構造的に苦しんでしまっているのかがよく分かってきた。それは、「芸術家」として見られると、いかに、作品が美しいか、完成度が高いか、価値が高いか、を求められてしまう。

そして、それに答えようとする自分がいる。それ自体は大切なことかもしれない。しかし、幻滅されたくない、という"作品"とは関係ない自意識が反応してしまっている。自分がよく見られるために、"作品" をコントロールしようとする力学が働いてしまう。

しかし、"作品"が享受するものだとするならば、コントロールするとは、なんと傲慢なことなのだろう。生まれてくる生命体を選ぶことは出来ないのに、どうして"作品"は選ぶことが出来るというのだろう。

もちろん、願うことは出来るし、意図を持つことはできる。しかし、それとコントロールすることは違う。しかし、ここのずれが僕には起きやすいのだろう。

日本の社会起業家の文化を作り上げてきた大先輩から、「意図を持って、意図を忘れなさい。」と言われたアドバイスを思い出した。また、最後に彼は言い放った。「もっと、こうすけは怒っていいよ。」と。正直まだその意味は分からないけれど、自分の怒りにアクセスしてみたいと思った。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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