あれから13年、福島第一原発を訪れて。体験した怖れ、涙、許し、そして美の直感。
3月11日が近づくと、心がざわつく。毎年、何をして、どこで過ごすのか悩んでしまう。
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あれから13年、僕は福島第一原発を訪問した。きっかけは、震災後初めて福島を訪れようと決めた、友人からの誘いだった。
僕は、震災直後に現地を訪れた。その後4年以上住みながら、NPOを創業・経営した。それからも3〜4年間は、ほぼ毎月現地を訪問した。しかしもう無理だ、と思う事案が発生したりと、身も心も疲れ果て、やり続けると言っていたことを完遂できなかった。
最終的には、逃げるように出ていった。これは、心の奥にずっと棘のように残っていた。このままではいけない、いつか向き合わないといけない、そう分かっていても向き合う勇気を持てずにいた。このタイミングで、友人から誘いが来た。
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メッセージを開いた瞬間、「あぁ、向き合うべき時が来た … 」と直感した。
結果、どうだったのか。滞在中はもちろん、滞在後も、言葉では言い尽くせないほどたくさんのことが起きた。今もその渦中だ。
現地訪問から1ヶ月半が経過し、心身がボロボロだった時期も過ぎ去り、やっと静かな時間を過ごすことができた。
本文章は、訪問を通し、何を感じ、何に気付き、どのような変容が訪れたのか、個人的体験を残すために書き記す。
夢に出てくる怪獣のようだった、福島第一原発。
何度議論になり、何度問われたか分からない、原発と放射能汚染の問題。
人によって意見が異なる上、感情的な(特に、怒り)対立を呼び覚ましやすく、かつ問題が大きすぎて、複雑すぎて、またわかったところで何かできるとも思えないテーマ。
知らず知らずのうちに、福島第一原発は、僕の中でアンタッチャブルな存在になり、とかく、触れないように、触れないようにする対象になっていた。
まるで、小さい頃いつも夢の中で見ていた、姿の見えない怪獣のようだった。怖すぎて、その姿を一度も直視することなく、逃げ続ける。見ないようにすることで、逆に妄想が膨らみ、怖れは大きくなり続ける。
福島第一原発も、存在を直視しないことで、怖さが大きくなり続けていた。そして、あれから13年。僕は、福島第一原発を訪れた。
福島第一原発を案内してくださったのは、経済産業省資源エネルギー庁 廃炉・汚染水対策官の木野正登さんだった。
木野さんに施設を案内してもらいながら、放射能汚染の人体への影響、汚染水の現状、廃炉に向けた現在地など、気になったことを随時質問させていただきつつ、お話を伺った。
(なお本記事は、僕の個人的体験に焦点を当てるため、福島第一原発の現状について、詳細を扱わない。)
福島第一原発に対する、恐さの正体。
まず分かったのは、福島第一原発に対する怖さには、4つの異なる領域があるかもしれないということだった。
一つ目は、測定された、可視化領域。放射能汚染物質がどの程度排出され、どのような対策がなされ、身体にどのような影響を与え、その測定はどの程度信頼できるのか、という科学の領域だ。
木野さんに施設を案内していただきながら、質問を重ね、原発の仕組み、科学的エビデンスを一つずつ理解しながら、何がわかっていて何がわかっていないのか、思考が整理されていった。
第二に、測定されない、見えない領域。科学でわかるといっても現状すべてが分かっているわけではない。放射能汚染の人体や生態系への長期的影響、また10万年も必要とされる廃炉のゴミ処理の領域。測定が困難な、見えない領域の話だ。
個人の体験でいうと、いくら科学的に安全と言われても、福島県沖で採れた魚介類を食す際、一瞬心理的不安を覚えてしまう自分がいた。本当に大丈夫だろうかと感じてしまうのは、この領域の話だろうか。
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さらに興味深いやりとりが、福島第一原発を訪問した時にご一緒した、20歳前後の大学生とあった。
僕の同世代や上の世代に、原発をどう思うかと聞くと、不安や恐怖心を語る人が多いのに対し、彼らは怖い感情はない、と回答した。
この回答を聞いて、はっとした。僕が感じる福島第一原発への怖さには、一つ目と二つ目の、原発が身体や生態系に与える影響それ自体とは別に、原発にまつわる身体的(社会的)記憶が起因する何かも存在するのかも、という気づきだった。
例えば原発の話題が出ると、震災直後の社会的雰囲気が想起される。津波が街を襲い、たくさんの人が亡くなり、メルトダウンの危機が発生し、日々官房長官が危機を叫び続けていた、あのときの雰囲気だ。
この、311に紐づいて身体に記憶されていた恐怖感が、原発への恐怖感と無意識に結びついていたのかもしれない。原発それ自体を語っているようで、実はそこに隠された身体的記憶について話をしていたのかもしれない。
これが三つ目の、身体的トラウマ(とでも呼ぶべき)領域だ。
四つ目は、上記3領域と、原発の社会的複雑性が重なって起こる、社会的分断の領域だ。原発それ自体の怖さとは別に、福島第一原発に対する人の感情が怖い。補償問題、イデオロギー問題など、議論がとにかく平行線を辿る。お互いの立場から、湧き上がってくる感情のぶつかり合い(特に、怒り)が怖い。
このテーマから、人の感情が吹き出し、人同士が衝突する(時に、罵り合いに)のが怖かった。また、これら4種類の恐れの領域を図にすると、次のようなイメージだろうか。
見えない怖さが小さくなり、見える怖さに。
これら4種の「怖さ」が重なり、いつの間にか、福島第一原発は、僕の中で正体の見えない怪獣になっていたのかもしれない。しかし今回、正体にずっと背中を向けていた僕が、その問題を直視することを試みた結果、それまでの怖さが小さくなった気がした。
扱えない、見えない膨張する一方だった怖さが、姿形のある怖さになっていた。妄想で肥大化した怪獣は、実は傷を負っていて、姿形を持つひとつの生き物であることを知ったとでも言えるだろうか。
初めて”被災者"の方々と過ごせた、追悼式。
僕は、震災直後から、"被災地" と深い関わりを持っていたにも関わらず、一度も3月11日の14時46分に "被災者" のみなさんと過ごしたことがなかった。
背景に、僕は被災していない、家を失っていない、家族を亡くしていないから、 "被災している方々" に申し訳ない、と考えていた。
そんな僕は、福島第一原発への訪問を経て、3月11日14時46分をどのように過ごすことにしたのか。
悩んで、悩んで、悩んだ。
まず、14時46分の少し前に開催されていた式典に参加した。キリスト教の聖歌隊の皆さんの歌声を聴き、泣いた。更にそこで見つけた、被災した皆さんのメッセージを見て、また泣いた。とにかく、泣き続けていた。
最後の最後。震災から13年、初めて追悼式に参加した。献花をしたり、共に黙祷をさせていただいた。
そして、気付いたことがあった。
僕も、精神的な "被災者"だった。
何もできない自分、人の役に立てない自分、最後の最後に逃げてしまった自分。実際に人に責め続けられたり、一方で不誠実な対応もした、弱い自分。
僕は、たくさんの体験を経て、心に傷を負っていたことを知った。というか、許した。そうか、物理的に被災していなくとも、身体的に被災していなくても、心というか、精神のレベルで深く、深く傷ついていたんだと。
それをやっと認めることができた。その意味で、勝手に僕が作っていた "被災者" と "そうでない人" の分断は、誰しもが被災しているという事実を認めることで、少しだけ解けた気がした。
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福島第一原発を訪れ、怖さに触れた。自身も傷を負っていたこと、また弱さを受け入れながら、3月11日を過ごした。
その翌日、共に福島を訪問した友人たちと、原発の 20km 圏内を移動してみた。
原発 20km 圏内で起きた、恐れの伝搬。
怖さが減ったと思った、原発被災地。しかし車で、原発20km圏内を巡ると、怖さがまた押し寄せてきた。町中立ち入り禁止の看板だらけだし、除染なのかずっと工事してるし、震災直後から空き家になったような家々も並んでいた。
車の中は会話が減り、怖さが伝播しているようだった。この場所にいるのもしんどい、そう思っていた。また、呼吸も浅くなっていた。
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驚くべきことが起きた。
この話に入る前に、前日夜、僕以外のメンバーは、宿で絵を描いていた。
福島第一原発の20km圏内では、この絵画の置き場所を探すことになった。
なぜと言われてもよく分からないけれど、絵画を見ていてどこか外に置いてあげたい、と思ったからだ。そしてみなで場所を探していたら、なんとなくここかもしれない、という場所に出会った。
そこで、「絵画たちが置かれたがっている場所を探す」という不思議な時間を経て、空間に絵が置かれていった。
その場に置かれた絵画たちは、本当に美しかった。まるで元々その場に存在していたような、その場のために描かれた絵画のようだった。
そして、不思議なことが起きた。
絵画が教えてくれた、世界の多層性。
気づけば、会話が弾んでいた。どこか緊張感ある会話はやわらかくなり、いつの間にか、呼吸も深くなっていた。恐れに飲み込まれそうな感覚は、どこか安心感というか、安らぎの感覚に移っていた。
この瞬間に、また気づきが訪れた。
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絵画の美しさもあるが、それだけではなく、むしろ絵画の世界観に触れた後に、世界それ自体を見ると、世界が異なったものに見えてしまっていたようだ。
人が怖がっているから、原発があるから、20km圏内だから、人が暮らせないから、そんな人間の恐怖とは別に、そこに美しさがある。それを絵画を通してみる世界が、教えてくれた。
考えてみれば当然で、人間がどれだけ恐れようと、生き物や自然はそこに変わらず存在する。世界も何も変わっていない。
どの世界も、どの場所も、世界は多層的なのだ。うつくしい場所があるのではなく、うつくしさはどこにでもある。怖い場所があるのではなく、怖さはどこにでもある。僕たち人間が、どの焦点で世界に触れるかによって、そこで目撃し、受け取るものが変わるだけなのだ。
この芸術体験は、僕に世界の多層性を教えてくれた。すべては、自分がどの領域から意識を向けるかなのだ。同時に、アートが果たしうる本質的な役割を体感した瞬間でもあった。
福島第一原発は、うつくしいのか。
これらの体験は強烈なものだった。
自分が何を感じているのかを言葉にしようと、ノートに文字を書き殴り始めた。すると予想もしなかった、次の言葉が僕の前にあらわれた。
ノートに出てきた問いに、僕自身が回答した。
驚いた。まさか、つい数日前まで見えない恐怖を感じていた対象に、美を感じてしまうとは思いもしなかった。
分からなさ、に対峙する方法を求めて。
長々と書いてしまった。
わかりにくいし、もっと省略すべきなことは分かる。けれど、書かざるをえなかった。恐らく、僕の中の何かを終わらせるために。
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結局、今回の一連の体験を通し、何を思ったのだろうか。
これまで避けてきた「分からなさ」に背を向けて生きるのではなく、時には正面から対峙し、寄り添い、遊んだりしながら、「分からなさ」と共に生きたい、ということだった。
なぜなら、それがこの世界の未知に触れる行為そのものだし、この未知な世界に私たちが生きている喜びを体験できる行為そのものだからだ。
これを一人でなく、仲間たちと。一人では手に負えなくても、仲間たちとなら、共に絶望し、喜び、泣き、遊ぶことができる。そして、分からなさと友達になれるかもしれない。
同時にこの分からなさを扱う上で、世界の多層性を体験できる芸術には、大きな可能性が隠されていることも発見だった。複雑な現象に対し、多様な人々と芸術を通して対峙していく、これは今後僕が担う役割かもしれない。
その意味で、福島第一原発が起こした一連の事象は僕にとってあまりにも重く、あまりにも大きなことであった。
Special thanks:
Picture 画家 Shunsuke Nakamura
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