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最後の最後、生まれてくれることを信じるしかない。
本番まであと3日。来週29日、この半年準備してきた作品群をお披露目するイベントがある。失敗したり、延期したりを繰り返し、やっとこさたどり着いた。正直、長かった。
しかし、すべて微調整中で、最後の最後まで、正直どうなるか全然分からない。本番1週間前に表現上の大きなブレークスルーが2つ重なり、構成もガラッと変えることになった。
作品を作っていると、度々こういう局面に出くわす。僕は作品が先にあるのではなくて、締切という名の制約が先にあり、その後にその瞬間に生まれる作品がある、という考え方がどこかベースにある。
つまり、場はあっても、作品は決まっていない。こんな作品になるはず、こんな作品が作れるはず、という構想はあっても、それは最後の最後まで、想像を超えて、二転三転を繰り返す。
本番1週間前に作品がないなんてことはざらだし。今回も3日前だけれど、最後の最後まで、どうなるかは本当に分からない。どれだけ準備を重ねても、当日ぶっつけ本番にならざるをえない表現がある。
こういう局面で、いつも湧いてくるのが「不安」だ。きちんと当日に本番を迎えられるだろうか。作品を作品としてお見せできるのだろうか。つまらないものになってしまわないだろうか。
あまりにも課題がありすぎて、答えにたどり着くためには、針の穴を通し続けるようなプロセスが必要になる。その過程は、不安でしょうがない。ふと、多くの人が平均して満足するような 80点の体験を目指して、結論を先に決めてそこに落とし込みたいという欲求にかられる。
しかし、芸術家として生き始め、それではだめなのだと気づいた。僕はそれまでに関わった、作品、体験、商品で、人が涙するほどの感動を与えることが出来ていただろうか。
なのに、詩を書き始め、作品を作り始め、気づいたら、作品に触れ、涙を流してくださる人と出会うようになった。正直驚きだった。一方で、何も感じないという人も増えた。違和感を感じる人も増えた。
そのような体験を積み重ねて、学んできたのは、「最後の、最後に生まれてくることを信じることしかできない」ということだ。きっと生まれるはず。そう信じて進み続けるほか、やれることはない。
妻も出産する直前まで、本当に子どもは生まれるのだろうか、と不安だったんじゃないかと思う。母親は、出産時に身体がぼろぼろになり、文字通りの産みの苦しみを味わい、子どもを出産する。そして子どもをみるまで、顔も、声も、母親は知らない。生んで初めて、子どもの顔を見ることが出来る。
それと同じように、僕も「生まれて、それを目撃する」体験を楽しみに、今日も産みの苦しみの中を生きようと思う。
そしてこれを読んでいる人の1人でも多くの人が、今月の場に参加してくれたら嬉しい。今回の場は、始まりの場。これから始まる営みの、一歩目の場。
僕への冷やかしでも、皮肉でも何でもいい。1人でも多くの方が参加し、少しでも心の琴線に触れる体験を提供できたらと切に願う。最後は祈りとともに。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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