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祈ることしかできなくて。
いくら願っても、叶わない現実がある。何らかの行動をしたとしても、変わりようのない現実が、この世には存在する。
こういう時、僕は祈ることしかできなくなる。思い返すのは、東日本大震災の経験だ。当時僕は20代前半で現地に飛び込み、数年間沿岸部に住みながらNPOを経営していた。この頃、人生で初めて、友人と「なぜ、人は祈ってしまうのか」について話をした。
僕は、祈る暇があったら、現実をかえるための具体的な行動をすべきと考えていた。祈っても何も変わらないから。行動することが怖かったり、行動すべきことがわからない人が、祈るのだと思っていた。
僕も歳をとり、あれから干支が一周周った。逆に、僕はいつのまにか祈る人になっていた。人は現実を変えられない時、祈らざるを得ないのかもしれない。例えば人が亡くなった時。何をしてもその人は生き返らない。このように、僕たちはほとんどのことが思い通りにならない世界を生きている。
それでも、人は生きていく。生きていかねばならない。そうした時に最後残されるのが祈りであり、信仰ではないかと思うようになった。なぜなら、意図しない現実に直面した時、人は、何もせずその場に居続けられるほど強くないから。人は、何かをせずにはいられない生き物なのだろう。
僕は特定の信仰を持たないが、どこかのタイミングで信仰を持つようになる予感もある。祈り、また信仰しか自分の身を救えないと感じるほどの、耐えようのない現実に直面したならば。
人を人のままでいさせてくれる、祈り・信仰とはなんと尊いものだろうと思う。意味があってもなくても、人の役に立っても立たなくても、僕は祈り続けようと思う。なぜなら、そうありたいから。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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