
息子と磯遊びをしながら、つくづく実感すること。
基本的に、私たち人間は、見たい現実しか見ることが出来ない。
息子と毎週海で磯遊びをしていると、このことを深く実感する。磯遊びをはじめた頃は、磯に、カニや魚、エビ、ヤドカリがこんなにたくさんいるとは知らなかった。ただ、一匹見つけて、「ここに生き物がいる」と思い込んで同じ場所をずっと眺めていると、それまで見えなかった生き物たちが見えてくる。
いかに、これまで世界を見ていなかったのかと思う。
また、息子を見ていて感じる僕との違い(多くの大人にとっても)は、息子は同じ生き物をずっと眺め続けることができるということ。息子はダンゴムシをひたすら集めているのだけど、大人にとって、一匹一匹のダンゴムシは、「ダンゴムシ」という概念なのである。だから、一匹見たら飽きる。
でも息子は多分、一匹一匹、違うダンゴムシとして見ている。それでじーっと眺めていると、ダンゴムシには足が何本あって、実は背中の模様が雄と雌で違っていて…、など知らないことにたくさん気づく。つくづく、「概念」として世界を見てしまっていることに気がつく。
僕にとって、息子と一緒に海や山で遊ぶ時間は、息子に何かを教える時間ではなくて、僕が息子の目線を学ぶ時間になっている。「これなーに?」と聞かれたときにも、図鑑に書いてあるような、名前で教えるのに躊躇してしまう。名前を教えるとは、その「何か」を伝える意味で、そのもの自体をみるのではなく、ラベル化をすることで、概念としてものをみることになり、結果、何かを失ってしまうから。
僕は子育てという名のもとに、自分自身が幼児化していることを日々感じるし、とにかく、息子と自然に触れることが楽しくてしょうがない。そんな葉山の夏。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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