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芸術でしか、引き出されない感性。
先日、宮城県白石市のとあるカフェで、kodou の体験会を実施した。
そこにご参加頂いた方から、体験から数日後、感じたことが言葉になってきたということで、体験されたことの共有を頂いた。その中で出てきた言葉が、表題の表現「芸術でしか、引き出されない感性があるんだと思いました」だった。
芸術家冥利に尽きる言葉である。また別の一緒におられた方から、「体験の数日後、世界の見え方が解体されるような体験が有り、なぜこんなことが、、、と思ったら、数日前の kodou の体験がまさにその引き金だったと気づきました」と言われた。
嬉しすぎる言葉である。
以前、僕にとっての芸術の意味合いについて、こんな記事を書いた。
僕のいう芸術とは、「共に目撃する装置としての "芸術" だよね。」と言われた。
共に目撃する装置としての "芸術" 。
僕の芸術関連の仲間は、アートバックグラウンドの人は稀だ。むしろ、サイエンスバックグラウンドの人が多い。だからか、僕らは、「作品」がはじめにあるのではなく、「現象」が先にある。その現象に驚いた自分たちが、そのエッセンスを共有したいし、それを共に他者と体験したくて、「芸術体験」と呼ばれるフォーマットに仕立て上げているのかもしれない。
また、いつも不思議なのだが、kodou を体験される方々の感想は、創り手の想像の遥か外にある。それは僕らが作品を提示しているのではなく、現象を提示していることに一因があるのだろうか。
そのあまりの多様さに、この世界とはなんと面白いものなのだろうと思う。それを引き出してくれる、科学と芸術の組み合わせとは、なんと楽しいものなんだろう。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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