蝦夷錦 四. 七重浜の戦い 戦国期の北海道
前回の話 蝦夷方には多くの渡党がいた。敵味方に別れた渡党を巻き込んで果てしない殺し合いは続く。勝利を目前にした蝦夷達の背後に、決死の突撃を掛ける和人の兵。因縁の土地、七重浜で蝦夷と和人の大将が邂逅する。
序章 四. 七重浜の戦い
「遠からん者は音にも聞けっ! 近くば寄って目にも見よっ!」
絶叫が海に響き、打ち寄せる波が大きくうねった。
花沢館は陥落せず、蝦夷は初めての敗北を喫した。
大勢を立て直すため、多くの蝦夷がコシャマインのいる下ノ国を目指していた。山を越えて茂辺地川に辿り着いた男たちの目の前に、茂別館の安東家政率いる和人兵が立ち塞がった。
「我こそは茂別八郎式部大輔家政である。何人たりともこの川を越えることは罷りならぬ。通りたくば屍となり、三途の川を越えて黄泉へと参るがよいっ!」
背後からは蠣崎季繁率いる花沢館の追手が迫っている。川沿いの細地に追い込まれた蝦夷たちは、下ノ国を目の前に身動きが取れなくなった。
春雪が舞う渡島。時折晴れ間から光が差し、餅雪が筋状に光り輝いた。吹き荒れる嵐が冬を呼び戻し、渡島の浜には波飛沫が花のように散っていた。
包囲された蝦夷たちを救うべく、コシャマインは宇須岸の館を出た。一〇〇の兵を引き連れ、七重浜を西へ進んでいた。
そこへ突如として現れた、武田信広率いる騎馬二〇騎がコシャマインの前になだれ込んだ。信広は左手に弓を携え、声高く叫んだ。
「我こそはっ!、武田大膳大夫が子、武田彦太郎信広!」
信広の眼は、一人の蝦夷を捉えていた。
大男揃いの蝦夷共の中でも頭ひとつ大きい、六尺はあろうかという大男。白い頭に髭を蓄え、一際目を引く綺羅びやかな衣。
あの男が、大将か。
男と男の視線が交差する。
互いが互いの顔、身体、気配を見て取った。馬の駆ける音や男たちの怒号を餅雪が吸い取り、七重浜で相対した二人の大将は沈黙したまま、相手の出方を探っていた。
この男を倒せば、戦は終わる。
信広の眼を見たまま、白髪の大男は動かない。馬上の自分が有利な距離にも関わらず、微動だにしない男の体。よほど自身があるのか、虚仮威しか。
騎馬に追い回され慌てて逃げる者たちを尻目に、一人の若い蝦夷が身を翻し立ち塞がった。
向かい来る騎馬武者を見据え、蝦夷の男が矢を放つ。矢が風を切ると武者の脳天へと刺さり、馬上から浜に崩れ落ちた。
すかさず二の矢を手にした若い男は、信広に向かって弓を構えた。
その刹那、馬上の信広が放った矢が一瞬のうちに体を貫き、若い蝦夷は浜に倒れた。
心の臓を貫いた矢からは若い男の体の血が溢れている。積もった雪が紅色に変わっていた。
倒れたのは、コシャマインの息子だった。
騎馬に跨った信広が単騎、コシャマイン目掛けて突っ込んだ。積もった雪が舞い上げられて赤い具足が一際映え、一気に距離を詰めて迫ってくる。
男の命を奪わねば、次に屠られるのは自分である。
コシャマインは二本の矢を右手に取り、弓へと掛けた。トリカブトから取り出した猛毒が塗りたくってある矢である。当たればヒグマも一撃で倒れる。
渡島の羆相手に何千、何万と矢を射てきた狩人にとって、騎馬武者は格好の標的であった。
弦を引き音が鳴る。大きく撓った弓が風を切る二つの音を放ち、矢は真っ直ぐに朱色の具足を捉え飛んでいった。
仕留めたっ!とコシャマインが思うやいなや、信広は手綱を強く引いた。大きく前足を上げた馬は天を仰いだ。
二本の矢は馬の腹目掛けて突き刺さり、飛び跳ねた馬もろとも信広は浜へと吹っ飛んだ。
舞い上がる餅雪、七重浜に馬の悲鳴が響き渡る。
もう一度、射掛けようとコシャマインは背中に手を回した。が、その右腕に激痛が走る。
信広が放った矢が右腕深くに刺さっていた。真っ赤に燃える鉄に触れたかのように、燃え滾る激痛が脳天にまで届く。
周りの男達が異変に気づいて、こちらに向かってくるのが見えた。その背後からは和人の騎馬武者が迫っている。
「若殿っ!」
「皆の者っ!手出しは無用ぞ!」
迷うな。討たねば、殺られる。討たねば、殺られる。
一瞬の躊躇が生死を分ける勝負である。焦るなと言う方が無理ではあるが、手負いの右腕は思うように動かない。
相手も無傷というわけではなかったが、それを確かめる余裕は無かった。
痛みを必死にこらえ、感覚のない右手で矢を掴み、弓を構えた。
顔を捉えたのと同じくして、一筋の矢が放たれた。
この男を仕留めれば、戦は終わるのだろうか。
シャモがアイヌを騙し、殺めたことからはじまった戦。先に仕掛けたのはシャモなのだ。我は皆を守るために、人を集い、戦を仕掛けた。
一人の蝦夷が戦を引き起こした。蝦夷の大軍に飲み込まれ、十二館は二つを残すのみである。ここで俺が立ち上がらねば、和人は死に絶えてしまう。
アイヌはただ、この地で暮らすために戦った。
我らは、渡島で生き残るために戦った。
男を仕留めれば、シャモは瓦解するのだろうか。攻めあぐねた館を落すことは出来るのか。すべてのシャモを追い出すことは出来るのか。
男を仕留めたとしても、蝦夷共が我らを許すはずがない。一度退いたとしても、再び波のように押し寄せてくる蝦夷相手に勝つことが出来るだろうか。
逃げ落ちていったアイヌは生き延びたのか。死んでいったアイヌは弔わねばならぬ。
館を取り戻したとして、渡島の統治は変えねばならぬ。蠣崎が渡島の柱とならねばならぬ。
戦に勝って、シャモを追い出したあとは、どうなるのだろうか。マキリは手に入るのか。再びシャモは海を渡ってくるのか。
このままでは終わるまい。我らが勝ったとしても蝦夷は押し寄せてくる。蝦夷共をすべて屠るまで、戦は終わらぬのだろうか。
我は、アイヌを守れるだろうか。
俺は、和人を守れるだろうか。
コシャマインの首元には、信広の放った矢が突き刺さっていた。
遠くなりゆく意識の中で、コシャマインは信広の顔を見た。自分の倅と同じぐらいの年頃だろうか。和人の男たちが馬を降り、こちらに向かってくる。
「蝦夷の大将、胡奢魔犬とお見受けいたす。」
首から血が溢れ出たまま、体の上に雪が積もっては消え、熱を奪われた体の感覚が失なわれていく。
「此度の戦ぶり、誠に天晴で御座った。我らの館を十も落とした采配、騎馬相手に見せた鬼神の如き武勇、後世まで語り継がれるであろう。」
男が話す言葉は分からなかったが、おのれを讃えていることは顔を見て判った。兜の下は若い優男である。倅が生きていれば、この先好敵手になったであろう和人の大将。
我はこの男を打ち取ることが出来なかったが、我らは滅んだわけではない。我が死んだとて、我らは死なぬ。いつの日か我らの誰かが立ち上がる。まだ戦は終わらぬ。
消えゆく意識の中で、コシャマインは信広の眼を見つめたままだった。先に死んだ倅と和人の男とが被って見えて、不思議と気が落ち着いてきた。
ああ。我が狩ってきた命と、我の命も同じであったか。ならば我らはなぜ戦ったのか。互いが互いに生きるため、命を奪うことは必然だったのか。
否。
我らが同じ言葉を介し、互いの思いを伝えることが出来たなら、我らは共に生きれるのではないか。
倅を殺した男が、倅と友となることも、あったのだろうか。
この男が、我の子となることも、あっただろうか。
我らも、和人も、同じ人なのだから。
「その御首、頂戴仕る。」
応仁の乱より十年前。
さきに渡島に住む ”蝦夷” と、あとから渡ってきた ”和人” との戦。
北の戦国乱世はこうしてはじまり、百年の時が経とうとしていた。
蝦夷錦 3. https://note.com/matterhorn/n/n92aa011b2733
蝦夷錦 2. https://note.com/matterhorn/n/nda61cee85d35
蝦夷錦 1. https://note.com/matterhorn/n/n2f23f4e743c4
人物・用語説明 https://note.com/matterhorn/n/nf84e68941247
参考文献 : 諏方大明神画詞 諏方社縁起絵巻・下 (東京国立博物館デジタルライブラリ) 新羅之記録 上・下 (函館市中央図書館デジタル資料館)