村上重良氏の象徴天皇観をめぐって  ー 伝統との融和か、妥協なき理論主義か ー

1,序
 私自身日本人として天皇陛下や皇族の方々に自然な敬愛の念を抱いており、皇室について学んで考え自分の意見を持ちたいと思い、保守派のみならず批判的論客の皇室論も読もうとするに至った。天皇のあり方への批判というのが如何なるものかを知っておき、さらに自分でその批判への批判を考える事で、この分野についての私の意見をより深みあるものにしようと思ったのである。そこで、村上重良氏の「日本史の中の天皇(講談社学術文庫)」(原本は同氏の「天皇と日本文化」)という著書を選んだ。この書が私の本稿を書くきっかけである。村上氏と言えば、主著「国家神道(岩波新書)」での帝国時代の神道や天皇のあり方への批判で有名であり、この分野の批判的論客の中での代表的人物である。「日本史の中の天皇」に於いて、村上氏は帝国時代の元首としての天皇のみならず現行憲法下での象徴天皇のあり方にも問題点を見出している。その問題点についての村上氏の議論の展開の様には私は大いに疑問を抱いた。本稿ではその話をする。


2.本編
 村上氏は象徴としての天皇のあり方について次のように議論を展開している。

「天皇は国および国民統合の象徴であるから、国内において、あるいは国民のものの考え方において、はっきりと対立のある事柄については、それを超えた中立の立場でいないと象徴にならないことになる。たとえば政治上の左と右、あるいは思想上の左と右、宗教上の仏教信仰とキリスト教信仰などは、いずれも日本国内に厳然として存在するが、そういうものを超えていなければ、当然象徴ではあり得ない。」
(出典:「日本史の中の天皇」、村上重良著、講談社学術文庫、2003年、第258ページ)

 私はこの主張に対して大いに疑問を抱いた。「村上氏の主張する意味での『中立』の実現は不可能はないか」と。天皇とは国民の思想上の右派左派の対立や宗教上の相違を超えた中立な存在であるべきだと村上氏は言う。しかし、中立か否かの基準は人によって異なり、国民全員を個々に全く納得させるような一つの中立の基準などあり得ない。もし「国民全員に共通なる思想上・宗教上の中立の基準」を議論や多数決で決めたとしても、それに内心納得せぬ国民が存在する限り、結局村上氏の言う中立ではない。日本国民の数が極少数にならない限り、中立に関する国民全員の合意の余地は存在しない。よって、村上氏によるこの「中立なるべし」という主張は、実践以前にそもそも論理の上で全く破綻が示されるのである。
 また、上述の通り実際にはあり得ない事だが、もし仮に天皇のあり方が思想上・宗教上全くの中立となったとしよう。その場合、その時の「天皇」を果たして日本を象徴する天皇と言って良いのか。「思想上・宗教上の中立」の状態となるならば、天皇は日本の伝統的な宗教や文化とは全く無縁なる無味乾燥な憲法上の公務執行機関となる。日本発祥の宗教たる神道の儀式や日本発祥でないが千数百年日本で信仰されてきた宗教たる仏教の儀式、またそれらの宗教の周縁にある文化やその他日本の文化にまつわるものがあってこそ天皇である。この天皇のあり方の無視した「合理」主義の果てには、真に日本らしさを象徴する天皇はいないし、無思慮で理論倒れの急進的方針によって我が国は多くの取り返しのつかぬものを失うだろう。これは歴史上の「伝統との融和や漸進主義とを軽視するエリートによる理論倒れの急進的方針の失敗」の数多の例から言ってほぼ確実である。「日本には神道や仏教以外の宗教の信徒もいるのだから、日本を象徴する天皇は宗教色を有してはならぬ」とは正論に聞こえるが、以上の理由から、天皇は他ならぬ日本の象徴なのだから日本伝統の宗教や文化の色に染まっても良いのだ。

 今、私が「天皇に宗教色ある事を許容し且つ認めるべきだ」と主張したので、今度は「日本では宗教色ある天皇に関する儀式に政治が関わっていて、政教分離の原則(:政治は宗教に介入してはならぬ)が守られていないのではないか。」という疑問が私に提出されるかもしれない。これにも反論したい。そこでまず、宗教・神話と明確に関連ある上に政治を行う人間も出席する即位の礼について考えてみる。複数の儀式から構成される即位の礼に於いて、三種の神器の継承、新天皇と三権の長(首相・衆参両議院議長・最高裁長官)との対面、御高座を前にした首相による寿詞読み上げなどが全て行われる。宗教色ある場面での天皇に関する儀式に三権の長が関わる事には批判があるだろう。「政治が宗教的儀式を行なっており、政教分離は守られていないのではないか。」と。しかし、これらの儀式は三権の長にとって形式的なものであり、この儀式があるからと言って国民の宗教心が上から統制されはしない。(信教の自由もまた守られている。)また、ここで他国ではどうなのかと気になるので、戦後日本の政教分離の輸入元たるアメリカ(アメリカは他ならぬ村上氏の認める政教分離の先進国である)を例に見てみよう。大統領は就任式で聖書に手を当て宣誓し、感謝祭では二羽の七面鳥に恩赦を出す。軍に身をおく聖職者(もちろん、特定の教団にも所属している)に対して国が給与を支払う。アメリカは「厳密には」政教分離の国ではないのである。しかし、それらはもはや伝統文化となっているものだからアメリカでは認められている。つまり、「政教分離の先進国」となるためには政治の宗教色を完璧に排除する必要もなく、「原則が実質において守られている」ことが問題の本質である。「もはや国の伝統や文化となっている上に国を不穏な方向に向かわせる危険もない」ならば政治家の関わる場面から宗教的なものを排除する必要もない。我が国で言えば、先に挙げた即位の礼や大葬の儀などの皇室儀礼がそうである。伝説を纏った神器の継承や、「大臣」が天皇に対して形式的にせよ「仕える」ことは我が国の伝統的な形であるし、それ自体が国を滅ぼす訳でもないし、それらが国民の信教の自由を侵す訳でも無い。「原則」を「杓子定規に」守って国の国らしさが失われるならば本末転倒なのだ。故に、天皇に関しての最高裁の「苦しい言い訳」とも取れる判断は有意義なものであろう。各国が自国の特色をよく発揮してこそ「世界主義」(国際化や異文化理解の時代を善く生き抜くこと)が実現するとは西田幾多郎の思想だが、全くその通りであると思う。
 また、私の論は「政教分離と信教の自由とを混同している」と思われるかも知れぬが、私はそもそもこの二つを完全には分割して独立に考えられるべきものではないので、「混同」自体による問題は無いと思っている。(国家による特定の宗教や教団への介入は、度合いによっては個人の信仰にも介入するからである。)

 以上が、村上氏の象徴天皇論及びそこから発展した政教分離論への我が主張である。とは言ってきたが、この本は私にとって反論したいことのみならず有益な箇所もまた多々あった。

 最後に一言いうと、私は国家が無制限に国民の宗教に関わるような国家神道が如きものを容認する訳ではない。国民やその他市民の人権が脅かされるならば、その時は天皇や神道や政治のあり方に対して私は声を上げるだろう。

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