感想メモ:『ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像』とイコンの認識

※劇場で見てきたので備忘録。ネタバレ含みます。

【映画について】

・フィンランド語のタイトルは『不明の巨匠』(Tuntematon mestari)。「名前の無い巨匠」とか「未知の巨匠」とか訳しても良いと思う。直訳で英語に直すなら、The Unknown Masterといったところか(邦題の副題の「名前を失くした」に反映されている)。実際に公開された英語タイトルは『最後の取り引き』(One Last Deal)で、日本語タイトルもこちらを引き継いでいるようだ。何となく英語で"one last ..."と言うと、「最後に、もう一つの取り引き」という響きも感じて面白いのだけど、一応原題ではないので深くはツッコまないことにする。
・フィンランドを代表する監督の一人、クラウス・ハロの監督作品。公開は2018年。日本語で見られるクラウス・ハロ監督の作品には『ヤコブへの手紙』と『こころに剣士を』があり、今回の『ラスト・ディール』では、『こころに剣士を』で脚本家を務めたアナ・ヘイナマーと再び組んだとのこと。『ラスト・ディール』を観て興味が湧いたので、後日他の2作品も取り寄せて観てみたいと思う。
・映画の長さは95分。

【物語の序盤に行われる「ラスト・ディール」】

映画のプロモーションでは、「絵画に全てをかけてきた美術商オラヴィが人生最後のオークションで大勝負に出る」という情報が与えられている。しかし、観て驚くのは、いわゆる「ラスト・ディール」と思しきオークションが映画の序盤(体感30-45分)で終わるというペース配分だ。それに伴い、職業体験の受け入れ先がなかった孫オットーも、(若干の不真面目さをちらつかせながら)サクッと活躍して役目を終える。こちらとしては、「名画の調査のプロセスの中で孫に大事なことを伝える」という映画だと思って観ていたため、この前半部には正直驚かされた。しかし、問題の絵画がレーピンの手になるイコンだという設定が映画全体を支配していることが明らかになってくるにつれ、「『名画で大勝負』というピークは、ほんの導入に過ぎなかったのだ」という感触が生まれてくる。

【オラヴィの矛盾】

オラヴィ&オットーのコンビがレーピンの謎を解き、オークションで勝つ流れは、美術商の面目躍如という感がある。しかし、名画の費用を集めるシーンに至って、オラヴィの人格的な弱さが明るみに出る。それは、オットーを一人で支え続けた貧しいレアに対し、オラヴィが一度も力を貸さなかったという過去の事実、そして今なお彼女に絵のための借金を頼もうとしているという現在の事実である。そして、レアの説得に失敗したオラヴィはオットーを誘惑する。「投資なしに成功はない」と。考えてみれば、オラヴィは始めからオットーに商売のスキルを教えてきた──名画を発見し、投資によって競り落とし、それを冷静に売ること(ただし、オラヴィが商売上手かは怪しい)。しかし、オラヴィがオットーの進学資金を借りたことを知ったレアは、オットーに激しい怒りをぶつける。「父さんは誰かのために生きたことがない」という彼女の台詞は、オラヴィの抱える大きな矛盾を明らかにする。それは、彼が全てをかけている名画は人類のために苦難を引き受けたとされるイエスの肖像画であるのに、当のオラヴィは周りの人々を自分の成功のためのコネとして利用している、という矛盾である。

結局、オラヴィは富豪との取り引きに失敗して危機に追いやられる。この事態は、オークション主催者によってある疑念──レーピンの名画かもしれないが、署名がないために贋作の可能性もあるという疑念──が、顧客へ入れ知恵されたことで起こる。しかし、これはオラヴィ自身が抱いていた疑念でもある。つまり、オラヴィはレーピンの絵を「巨匠の名作」としか考えておらず、それが何の絵であるのかを理解しきれていなかったために、署名の謎を自力で解くことができなかった。オラヴィはレーピンの絵を売りさばくことに失敗した上に、レアによって自分の生き方の弱点を突き付けられ、美術商の事業から引退することを決める。そのとき、美術館からメッセージが届き、「レーピンが署名をしなかったのは、イコン画家としてのへりくだりの表れだ」という推理が寄せられる(イコンは今回の字幕では「聖画」と訳されていた)。

この結末は、東方教会のイコンの特徴を知っている人なら、無署名のイエスの肖像画とロシアの巨匠という2つのヒントで完全に予想できたかもしれない。僕も「イコン」というフレーズには思い至らなかったのでハッとした一方で、署名の問題が指摘されたシーン辺りで「キリスト教美術の無署名に正当な理由があるとしたら『神に対する画家のへりくだり』しかないだろう」というくらいは予想していた。裏を返せば、人生を美術にかけたオラヴィが無署名の理由を推測できないのは不思議なところだが、そこはこの映画の筋書きから言って別の必然性があったのだと思う。

【イコンを見知ることができるのは誰か】

もう一度、オラヴィに起こった出来事を整理すると、オラヴィは手段を尽くして巨匠の名画を競り落とすも、自分の利己的な生涯を直視せざるを得なくなり、一方で、その名画がイコンの慣習を引き継いでいることを理解できずにビジネスでも失敗することになる。翻って、オラヴィがイコンについて知らされるのは、自分の生き方を後悔し──「悔やんだ」というのは遺言の手紙の言葉である──、ビジネスを離れたときである。これは世俗的に見れば、名画ビジネスに挫折した美術商の物語ともいえるが、当の名画がイエスのイコンであることでより深い構図が仄めかされる。それは、利己的な者にはイエスを理解することができず、悔い改めた者に初めてイエスについての確信が贈られるという構図である。

これはそのまま、芸術家の名前を探すオラヴィと芸術家の名前を伏せるレーピンの対比と重なっている。自己の成功や栄誉、利益に夢を見る商人と、そうしたものを(救い主の前に)空しくする宗教画家の対比である。

もちろん、僕がここでいう「イエスについての確信」は「イコンという絵画の正体についての確信」という美術商のフィールドに留めて表現されているのだから、ここでオラヴィが宗教的な意味で悔い改めたとまで言うつもりはないし、そう言う必要もないだろう。大切なことは、キリスト教の典型的な図式の一つが、絵画ビジネスという世俗の物語に援用されていると考えれば、当の名画が(冒頭に出てきたような風景画ではなく)レーピンの宗教画であったことにも脚本上の必然性が見いだせる、ということだ。要するに、レーピンによる肖像画は「名画」である前に「聖画」だったのである。そして、東方の宗教画家たちが自分を無にして敬ってきたキリストは、愛と犠牲の生涯を全うした人物であり、かつてのオラヴィとは正反対の人物であった。そして、そうした愛の倫理は、レアにとってはシングルマザーとして彼女なりにこなしてきた当たり前の生き方と重なるものであり、オラヴィにとっては遅ればせながら最期の日々を穏やかにした新しい価値観だったのである。

ここまで来れば、なぜ「ラスト・ディール」が序盤で終わるのか、という疑問も疑問でなくなるのではないかと思う。結局、オラヴィが最期に経験する変化にとって、「オークションでの大勝負」は物語の始まりに過ぎなかったのだから。

【その他の感想】

・あまり目立ってはいなかったが、音楽が地味に好みだった。サントラはYouTubeのアートトラック(サブスク)で無料公開されている。一番耳に残ってるのは美術館のシーンのこのピアノ曲。

ちなみに監督のインタビューによれば、オラヴィが美術館で値付けしていた絵は非売品であり、実際のところ価格はないらしい。

・最後のスタッフロールを読んだかぎりでは、映画に登場した絵画は別の画家によって(おそらく撮影用に)描かれたものらしい。少し調べてみたが、本当にある絵を模写したものなのか、(例えば幻の絵のように)映画のために用意した架空の絵なのかはわからなかった。ちなみに、レーピンが1884年に描いた「キリスト」には署名が書かれている。

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