目の前プラクティス②
本当は③なんですけど、本当の②がちょっと此処では公開できない恥ずかしい話になってしまったので。
散歩中に書きました。
では、本文↓
2/18 夕方
何かが、落ちていた。蛇、だろうか。それならアスリートの太腿くらいありそうな胴体だ。まず普通お目にかかることはない。歩みを進める。蛇はまんじりともしない。ドッドッと鼓動が大きくなっていく。そしてあと数歩で、
(……なぁんだ)
蛇だと思ったのは、わたしのマフラーだった。たまたま母に借りた、豹柄の。
◎
思考が理屈っぽくなるのが厭だった。小説を書くに当たって、日常生活を文章のネタにする。高校生のときに同じ訓練をしたことがある。そのときに経験した頭をずっと使っている感覚は、まるで脳味噌をホルマリン漬けにしたような息苦しさだった。
(だが…)
大学生になって幾度か体験したこと。それは過去の経験が、必ずしも繰り返される訳ではないことだ。講義の中で、認知行動療法というものを知った。簡単に云うと、マインドチェンジだ。
直ぐに喩えが浮かばないが、つまり、再びこの訓練をやったとしても、前回のようになるとは限らないということだ。仮に芳しい結果にならなかったとしても、トヨタが使っているというPDCAサイクルなどを使って、トライアンドエラーをしていけば良いだけの話。
◎
こうして思考を文章化していると、わたしの思考は風に流れる雲のようだ。
ストーリーの何処にも無駄がない映画を尊敬している。例を挙げるなら、クリストファー・ノーラン監督のダークナイトとか。この文章化練習をしたとして、いざ創作をする際には無駄がないようにする技術も求められるのだな、と痛感する。まあそれはプロット練習でまたやればいいだろう。並行作業が理想的なので、少しずつ其方も進めていきたい。
流動する思考。今日の場合は散歩をしながら、というのも大きいかもしれない。景色が変われば見えてくる対象物も変わっていく。脳は変化した視覚情報を咀嚼して新たな思考を生み出す。
そう、まず、鳥が鳴いている。未だ二月も半ばなので春告鳥ではないだろう。空を見上げた。見上げた先に映る裸の合歓木を見て、天に向かって枝を伸ばしている姿が、祖母の近所の家に植っていた白木蓮に似ていると思った。
『白木蓮にも似た…』
もう直ぐ、だな。年度が変われば社会人。最後の卒業式がやってくる。