住む世界の次元について

Educatorや社会的地位の高い人たち、毎日食べることに困った!という経験のない人たちは乱暴だと感じる。

子どもが子どもでいられなかった世界を知らない人たちの言葉はどれもリアス式海岸のように、とりつく島がない、と感じる。

幼少期から不可抗力で貧しかったこと、それは他の世界との断絶でしか無いのだと、今は思うけど。

やっと人並みの、安全安心、不安の最も少ない、ジェットコースターみたいじゃない生活が出来るようになったのなんて、44の今、ここ10年だ。

ある意味、人間に成れた感に疑いを持たなく成れたのはほんのこの10年程だ。

確かに18歳から自活してきた。

大学へも行った。

授業料を稼ぎ、生活費を稼ぎ、親元というか、彼らの支配から逃げることで精一杯だった。

更に逃げ切りたくて、海外へ引っ越した。
働きまくった。お金しか頼れなかった。でも、お金は助けてくれた。慰めてもくれた。

でも、欲しいものを望んではイケナイ、自分にはその価値がないのだから、、、という長年の鍛え抜かれたその思考から、逃れることは16年も海外逃亡してもついて回った。

1度でいいから。

心底、安心してみたかった。
心底、安堵してみたかった。
自分は、狭い選択肢の中で、足りない頭でココまで命を繋げてきたのだ、と胸を張ってみたかった。

それには、親と直接対決するしか、もう出来ることは残っていなかった。

私は今の、俗に、平凡と言われる、今の、田舎での家族生活が狂わしいほど愛おしい。娘が、何の疑いも無く、毎日が同じことの繰り返しだとグチれる位の生活水準で、彼女と一緒に暖かい家があり、好きなモノが3食食べられ、家族3人が朝夕、一緒に食事をとることができ、その日の出来事をお喋りしながら、笑ったりムダグチ叩いたり、誰もを傷付けることもなく、一緒に生きて居られることが、私には願ってた以上の幸せ、そのものだ。

そう。
子どもが子どもらしく暮らせること、これは当たり前ではなかったのだ。

でも、今、立場は違えど、実現出来ている現実を。

今、私は生きている。