[映画鑑賞雑文] ミッドナイト・スカイ

 映画を見たので何か書こうと思ったんだけれど、映像作品の感想というものを書いたことがなかったので、雑文ということでひとつ。内容は配信でも話すかもしれないので、それに向けて思考を整理することもできたらいいな。

 この『ミッドナイト・スカイ』を見ようと思ったのはTwitterがきっかけだった。
 とあるVtuberの方によるAmazon prime videoやNetflixで見れる映画を紹介してるツイートがRTされてきたのだ。
 https://twitter.com/typeYU_NA05/status/1489252441375657993
(Note初心者だから埋め込み表示とかわかんない)

 これを見て、観ようと思った。なにかに触れるきっかけなんてそれくらいの理由でいいと思う。僕の場合、どうせ見るなら事前情報は少ないほうがいい。SFが好きだから一番下のやつを選んだ。


 この紹介文にもあるんだけれど、「見たあとの余韻がとにかく凄い」。これはマジ。
 余韻、ってなんだろう。どういう時に感じるものだろうか。
 僕は普段、映像を観るよりは本を読む機会のほうが多くて、そっちでも余韻が残るものを好む傾向にある。
 映画でも小説でも、物語は終わる。フィルムが終わってしまえばそれ以上の続きが流れることはないし、最後のページを捲ってしまえばそれ以上に文字が綴られることはない。
 動画配信サービスによって映画を見るなら、映画館で見るよりもその終わりは明示されやすい。ちょっと操作した時に動画のシークバーが見えてしまえばすぐだ。「残り数十分、ということはそろそろ最後の展開があるかな」なんて考えて萎えてしまったネタバレ拒絶派もいるのではないか。僕もです仲良くしましょう。

 本ならそうして文字を追いきった後に、あとがきだったり解説だったりが掲載されていたりする。好きなった本や凄いと思った本に出会って感銘を受けた時、僕はこの最後の文章を読まないで、本を閉じてしばらくじっとしている。
 印象的だったシーンを思い返したり、描かれていなかった誰かの心情を考えたり、終わった物語の続きを妄想したりする。すべての心情に直接の言及があるわけはない。いちいち書いては冗長になってしまう。
 だから、そういうものを探す時間が欲しいのだ。少しの時間でいい。どんなにじっくり読んだところで記憶力には限界があって、すべてを読書直後の時間で考察しようとすると、直後にしかない新鮮な感情が褪せてしまう気がするからだ。その感情が残っている間だけ、まだ纏まってない思考と感情に浸りたい。
 解説を読んでしまえば感情が理論に解体されてしまうかもしれない。そういうのも好きだけど、それは後からやればいい。あとがきを読んでしまえば舞台裏まで見えたりなんかして、本当にすべてが終わってしまう。それらは僕にとって現実世界で、現実が嫌いなわけではなくても、別の素晴らしい世界を見た後ではすぐに戻りたいと思えないものなのだ。

 あと少しだけこの作品世界を見ていたい。考えていたい。生きていたい。
 あと少しだけ、あと少しだけ。朝の布団の中で思うようなそんな感情が、「余韻」なのかなあ、と思ったわけです。



 映画の話。一応ネタバレ注意。

 一度見ただけなので、見落としや勘違いが含まれる可能性があります。
 とりあえず先に映画を観よう!


 話はシンプルだ。
 地球に住める時間はもう長くはなく、他の惑星へ移住する話が持ち上がる。移住できる惑星を探して、サリーら一行は宇宙船に乗って木製の惑星へ調査に行く。調査をしてその結果を持ち帰る途中で、地球は人間の住める星ではなくなっていく。避難していく住民たち。それを拒否したオーガスティンは、余命短い時間を生存可能地域として残っている北極の基地に残って過ごすことにした。寿命が先か、輸血が尽きるのが先か、北極も住めなくなるのが先かはわからない。その地球の状況を知らぬまま、サリーら一行は調査結果を持って地球を目指す。

 話はとても静かに進む。一方はたったひとりの北極基地、もう一方は少人数の宇宙船だ。イレギュラーが起きなければそこから動くことはない。
 学者オーガスティンは「輸血が途切れると死ぬ状況でも、脱出船に乗るよりは長く生きられる」と啖呵を切って北極に残るけれど、その後の生活は穏やかなものだ。体の調子が悪くても、台の下に座る女児をみつけた後も、いたって理性的に生活を送る。宇宙船だって、家族の映像を空間に映すことで寂しさを紛らわせながらも、クルーたちは互いを尊重して活動している。
 あまりにも大きな滅びを前に、ここはひどく穏やかだ。

 どれだけ静かに生活していても、そこは極限と言える環境の中である。北極では少し移動しようとしただけで寒さに襲われるし、足の下に陸地はない。宇宙船だって、船外の不具合を修理するだけで、無重力と宇宙服での活動を強いられる。そこでは何が起こるかわからないし、何か起きた時は被害が大きくなる可能性も高い。
 そんな中にいても、時に取り戻しきれない損失が発生しても、感情をしっかりと持ちつつ、最後まで理性的であろうと強く生きている。
 その生き様に憧れる、と言えるほどには、彼らは内面を開示してくれてはいない。ただ、その穏やかな微笑の裏に何があるのか、と気にはなる。何かの感情を理性で抑えた上で、それでも相手のことを好ましく思い、対話しようとする姿勢としての微笑だったりはしないか、と考えてしまう。作り笑いではない。でも、どうしても忘れられずに考えてしまう別の感情がありそうに思える。その興味が、作品から目を逸らすことを許さない。
 みんなが何かを抱えて生きている。近寄れば悲しく、離れれば楽しく見えてくる他人の人生を、悲しさも楽しさも時折垣間見えるような距離を保って見ているような、そんな感覚だった。もう少し、もう少しだけ見せて欲しい。そう思っているうちに、余韻を残して映画は終わってしまう。

 今はその余韻からなんとか抜け出して、この文章を書いている。
 何がこの余韻を生んだのだろうかと考えると、やはり口数の少なさが理由に上がると思う。紹介にはオーガスティンの口数が少ないとあったけれど、隣にいる少女だって喋らない。
 宇宙船の中では会話があるけれど、滅多なことでは深いところまで踏み込まない。北極より人が多い分だけ変化はあるけれど、普通に、善良に生きている。
 そんな穏やかな中でも、人間であるからには感情があって、その感情は行動にも自然と現れる。その欠片を紡いで、時に何も考えず浸る。
 そうして僕がそこに感じたのは、優しさだった。
 僕は余韻の中で、この滅びゆく優しい世界に寄り添っていたかったのだ。


 ネタバレ増えます。

 

 結局のところ、問題は解決していない。脱出船が飛び立った後にどうなったかも、はっきりとはわからない。
 脱出の先はどこだったのか。ここまで漠然と「大型ヘリでどこかに集めた後に、みんなで他の星に行ったのかなあ」とか思っていたけれど、そういえば集めたシーンもなければ行き先を聞いた覚えもない。宇宙船乗組員の家族からのビデオレターだって、具体的な行き先を言っていなかった気がする。「避難するよう言われている」とだけ。
 そもそも地球が滅んだ原因も、現状どのくらい住めないのかもわからない。近くに死体があったことから、かなりやばそうだということだけが伝わってくる。(僕が情報を見落としただけという可能性は否定できない。)
 オーガスティンはもう間もなく死ぬだろうし、サリーらが戻っていった衛星は生存できそうだけれど全てが解明されているわけではない。世界についても個人についてもわからないことだらけだ。原作を読んでみようかと思っているけれど、それでも明かされない部分は多いだろうと予測している。

 最後まで静かだった。生き物がいないことが当たり前だったからだろうか。どこも静謐な空間が広がっている。
 船外作業で死者が出たときも、直接の言及はなかった。ただ、他の人たちの静かな悲しみが伝わって、何が起きたかを察した。諍いはなく、皆がただ悼んでいる時、きっとこうなるのだろうなという説得力と、最後に死んだ地球に戻るという選択肢への布石。自殺としか思えないその行為が、それでも自殺ではなく「帰宅」であることが、すんなりと胸に落ちる。
 彼にとっての希望は帰還であり、新天地の発見ではなかったと思う。行き先も告げずに避難した妻が、避難先などないままに地球の滅びに呑まれた可能性は高い。それを知った後に考えを変えていることも、傍証にはなる気がする。それでも、それまで理性的にいたこと。地球の現状を知って感情的になっても、理性を捨てなかったこと。この帰宅が自暴自棄などではない、人間的な思考による選択であると思わせてくれた。諦観のようなものかもしれない。
 実際にどれだけ理性的だったかはわからない。時に具体的で直接的な心情描写のある小説と違って、映像作品では表現から感じることしかできない。でも僕は、最期の描写も含め、理性的なものを感じたのだ。
 この選択を受けても、宇宙船の中は静かだった。人が減った分だけ更に静かだ。

 最後の通信は、愛と希望が確かにあった。新天地となりうる星の美しさを語るサリーの言葉は、この後に続く世界を心配しながらも、なんとかなるのではないかという希望を感じることができる。それに対するオーガスティンの言葉は、人類も捨てたもんじゃないなと思えるだけの愛が感じられる。
 人生の最後に、誰かの救いになれたらと思って過酷な環境を移動した彼は、きっと報われたんだと思う。報われて欲しい。そう思う余地があるのも、アイリスの言葉を聞く彼の優しい表情をしっかりと描きつつ、通信のあとの彼の様子が一切描かれなかったからだ。生死すら不明の"その後"を、「切れた通信機を少し見たあと、静かに生活へ戻った」と解釈してもいいし、「その場で幸せな顔をして事切れている」と想像してもいい。他にどう考えてもいい。

 でも僕は、幸せな未来を想像しながら、もうしばらくこの世界に思いを馳せていたいと思った。
 

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