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京都魔界エッセイvol1 崇道神社

京都で生まれ育った妖怪の子孫・葛城トオルが思いつくままに書いたエッセイです。
京都愛を込めて書いていますので、どうぞお楽しみください。


妖怪堂の京都魔界エッセイVOL1 崇道神社

皇位についた桓武天皇は 悩ませれていた。80年余り続いた平城京には 長老達が沢山居て政治に口出しをするからだ!
そこで長岡京遷都を思いつくわけである。内密にそれは進められた。しかしそこにはリスクが伴うのだ。
そして案の定 反対勢力ができてしまう。
これに気転をきかせた桓武天皇は、邪魔な存在までも葬る妙案を思いついたのだ。

反対勢力が動く・・・・長岡京の造営中に、その責任者であった藤原種継が暗殺される。
しかし首謀者が数名捕らえられ クーデターは失敗に終わる。
その中に なんと弟の早良親王がいたのだ。

早良親王は長岡・乙訓寺に幽閉される。
彼は自分の無実を訴えるために 命を懸けて断食をしたのだ。
無言の訴えも叶わず 淡路島に流刑が決まり 流される途中で息絶えたのである。
捕えられてわずか二週間後のことである。

その後 桓武天皇を取り巻いて 凶事が次々と起こる。
妹の死 母の病気 妻の死 息子の病気 ・・・・長岡京の壊滅
*今日まで歴史上では 長岡京が存在した年月というのは10年だが
最新のデータでは 建設中だったことが明らかになってきた。
その理由は 二本の河川による洪水が原因とされている。

この事柄を人々は 「早良親王の祟り」ではないかと囁き始める。
やがてこれが桓武天皇の耳に入り 自分でも認識しはじめるのである。

一説には 王位継承者は早良親王であったが 桓武天皇は自分の子どもに継がせたいという
欲望があったので 早良親王を罠にはめたのだろうということである。
政治的な実績も早良親王が上回っていた。
桓武天皇の疾しい気持ちが 「怨霊」を生み出したのである。

「怨霊」をそのまま放置はできない。なぜなら次にどんな凶事が起こるかわからないからだ。
その対処法は 「神様として祀り上げる」というものだ。
そんな理由で神社ができあがるのだ。すなわち「怨霊」が「御霊」になる。
実在の人物が神社に祀られているのはほとんどが怨霊といってよいだろう。

長岡京に見切りをつけて平安京へ遷都する際、都を怨霊に護っていただこうということで、
その周辺には早良親王を祀る神社が創建されていった。
御所の北に上御霊神社 南に下御霊神社ができあがり 藤森にも祀られる。
またそれとは別に大将軍神社が平安京を取り巻いて結界を張るというシステムも構築される。
その中核は将軍塚である。

親王を天皇の位に上げて追号し「崇道天皇」の称号を与え祀ったのが「崇道神社」である。
一人の怨霊を静める為に 数々の神社が出来上がるということなので よほど恐れられていたのがわかる。

政治や権力争いの中で 都を追われ 不運の死を遂げる。そして直後に都で凶事が起こると「祟り」だと恐れ
 それを封じるために神社ができあがる

長い京都の歴史の中でこれが繰り返され 神社が作られる。
そしてなんと上御霊神社には都合十三名の怨霊が祀られることになる。

崇道神社はいつ訪れても人に会ったことがない。
北白川から大原に抜ける道筋にそこはある。
クルマがビュンビュン通る道端の石の鳥居を潜ると 空気感が変わる。

100Mほどの参道の坂をあがっていくと祠がある。
とにかくここは 私が知っている神社の中で 一番パワーを感じる場所である。
「怨霊」というパワーではなくて その山の中に何か「得体のしれないモノ」を感じるのである。
それは凄まじい。

前に訪れたときは 参道の脇の木々は揺れもしないのに鳥居にかけられた注連縄の紙垂れだけが、
ゆらゆらとしていたのを憶えている。

またここの神輿は怨霊を乗せた神輿なので大変なことになっている。
「神輿の道筋が決まっていない」のだそうだ。
ある時は畑を横切り 民家に入ったり 叡山電鉄の線路に入り電車を止めたこともあるそうだ。
まさにデカイ「こっくりさん」状態であるので恐ろしい。
基本的に怨霊を乗せた神輿は猿田彦大神が導くのが普通だがこちらの神輿を先導する者はいない。
このあたりのお話はまた別項で。

日本三大怨霊という言葉がある。それは 菅原道真・崇徳上皇・平将門の三人を指す。
しかし怨霊のパワーを何で計るかというと、それは「被害の大きさ」では?
だとすれば早良親王は長岡京という都一つを壊滅状態にしているという事実から、
日本最大の怨霊であったのではないかと私は思っている。

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