見出し画像

第二期平安京の概念

京都の基盤となった平安京 この都がどのような範囲と概念をもって建てられたのかを解説していきたい。
ただ四神相応という考え方があるがそれはまた別項でお知らせしたい。

現在の阪急電鉄京都線の西京極駅というところがある。この西京極という表現は地名ではなく平安京の一番西の縦の通りの名前だった。「西京極大路」という名前です。
字のごとく、京の西の極みの道 ということになります。ここから西は京都じゃないよ! というような意味合いですね。
その通りの外側が天神川になります。平安京が出来たころは、この川の名前は「御室川」と呼ばれています。御室から真っすぐ南下する川です。この川に沿って平安京が作られたということになっています。
西京極大路があれば東京極大路があります。これは現在の寺町通りということです。 その外側に鴨川が流れている。その河川の敷地は現在の鴨川の3倍ぐらいの広さで、西側に広がった河原がそのまま「河原町」になったということ。
その広い鴨川の河原の中に7本~8本の小川が流れていたということを想像していただければ良いかなと。
これが、大雨になったりすると、一本にまとまったり、蛇行したりしていたということであり、非常に危険な川だった。

また都の一番上、東西の通りが一条大路、南下するに伴い細い通りが三本あって二条通り。また細い通りが3本あって三条通り、細い通りが3本あって四条通りということになります。
で、一番南側が、九条大路になります。このあたりには、東寺が現存しておりますので、場所的にはよくおわかりいだけると思います。
そんな範囲に平安京が建てられました。
京都盆地の中に結構広大な範囲で、鴨川と天神側の内側、北は一条から南は九条通り、ということです。

この京の都は、中国の長安に習って建てられていますので、右京の方(つまり西側)を「長安」、左京の方を「洛陽」というふうに名付け、794年に平安京として建てられます。

南の入口として羅城門が築かれますが、都は低い塀ですけども、羅城に囲まれていたことから、羅城門と呼ばれたということです。
この「羅城門」という名は実は総称で、都の正面の門をすべて「羅城門」といったそうです。後にすべての門に名前が付くのが普通ですが、この門の扁額を弘法大師空海が書いたことから、そのままそれが名称として使われたということである。
メインストリートの朱雀大路を挟んで東側に教王護国寺。西側にそれとと同規模の西寺を建立されることになります。教王護国寺は東側にあったことからニックネームとして「東寺」と呼ばれるようになりました。
左右対称にできているところが結構多く、生鮮食品を扱う市場や、迎賓館、そんな施設が、東と西の両方に建てられたようであり。囚人を収監しておく獄舎も右獄、左獄として両側にあったようであります。


第二期平安京

794年に平安京が設立されましたがしかし、それから70年~80年に満たない間に、この平安京の様子が様変わりしていきます。というのは、長安の方が水害で滅びます。洛陽だけが残りますが、川の整備をもう一回やり直し、強固になった川が堀川であります。
また都の南端が九条まであったのがショートカットされて五条大路までとなります。この五条大路とは現在の松原通りのことであります。
この形を私は、第二期平安京と呼んでおります。
妙な形で、御所が飛び出ています。御所の西に「宴の松原」という林があったそうですが、そこで、女性が鬼に襲われたというお話が残っておりますことから、御所の西側は治安が悪かったようであります。

 風で倒壊した「羅生門」に、鬼が棲みつき、屍が転がったのです。「国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり・・・・」と数々の本やガイド・WEBに書かれてはいるのですが 実際はちょっと違うのです。
確かにこの近辺は、荒れるにまかせた地域だったようですが、政治自体が荒廃という大袈裟なことではなく、平安京の位置と地域エリアが当初とは違うものに変化していったということです。このことが理解できていないと 平安時代の事柄が、すんなりと当てはまっていかないのです。
それは 地名・お寺・伝説・物語など いろんな方面に及びます。正しく平安時代をイメージし理解するのには、これは欠かせない事柄なのです。

右京を「長安」左京を「洛陽」と名付けられた平安京は、右京が水害に遭い滅び、人が住まない地域になりましたが、この時、治水工事をおこなって強固になった川が堀川です。
堀川と鴨川にはさまれた一条から五条の間の洛陽が残り、これをもって「洛中と洛外」と区別するようになりましたが、平安時代からすでにこの概念があったよう。

都の人々は、この洛中エリアを「現世」、洛外を「あの世」と認識し、このことによってエリア外と、そこに掛かる橋に不思議な伝説や物語が生まれ、伝わることになります。
1200年続く京の都は、このエリアを中心に、お話が展開されるていくことになるわけですが、鬼や妖怪、魔界、そして源氏物語などもこのエリアの概念で描かれています。

堀川と鴨川、これは二本の「三途の川」だということで、この二本の川に掛かる橋の伝説が多く存在し、後で紹介していくことにします。

リアルな平安京のエリアというのを前にお伝えして、それであの世とこの世の区別がつきますが、このエリアの内は治安の良い場所で、外は「鬼が出てもおかしくない」ような場所だったのです。
この場合の「鬼」というのは盗賊等をあらわしているので、外は治安の悪い場所ということであります。むろん外にも人は住んでいたのですが、大方の人は「名字」のない人達でした。

内に住む人々にとってこのエリア内は生活の場「現世」であり、このエリアで人が亡くなるとエリア外に出るので「あの世」ということになるわけですね。

この概念をもって葬送のシステムが構築されていきます。
そしていろんな伝説やエピソードによって、この第二期平安京が証明されるわけです。
もちろん個々のエピソードは長くなるので別項で紹介していきますが、ひとつだけ。
源氏物語に夕顔を呪い殺す生霊になった「六条御息所」名前が六条ですから(当時の五条よりも南なので)これはもう魔界です(笑)

ここから先は

3,991字

¥ 3,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?