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声の大きな人たちと森の中の小さな声について

今日は久しぶりの平日の休み。最近は予算折衝、部下のメンタルの相談などストレスのかかる仕事が多くてなかなかにしんどくて、今日も休みだからと別に何をするでもなく自分の部屋でオイルヒーターの隣で音楽を聴きながら読書をしてウトウトして過ごしていた。私にとっての最良の休日の過ごし方。

昨日はメディアの対応があり、朝から地元テレビ局の取材を受ける。職場におけるデジタルトランスフォーメーションの取り組みについての取材で早速その日の夜のニュースで流れたそうだ。地元のテレビ局の取材だったのでそんなに反響もないだろうと気楽に対応していたら、今日九州の同僚からメールが来ていた。地元のニュースでもすぐに動画になって配信されるので、ニュースを拡散したい人たちにとってはいい環境なのだろうけれど、私は正直恐ろしいなと感じる。

私のような何者でもないサラリーマンの言葉ですらネットに乗ればすぐに拡散されて色々な人達に届いてしまう。使い方ひとつで、自分の声を爆発的に広めて真偽不明の情報も信じ込ませることができる社会。それを使いこなすのは、声の大きな、自分の言葉を拡散したい、信じ込ませたい人たちであり、それは私が普段できるだけ遠ざけておきたいタイプの人たちだ。

大きな声で優位に立ち、自分の思うがまま人を操ろうとする人。自分の言葉を誰かに信じ込ませて、自分の利益や優越性につなげたい人。自分はその対極の人間でありたいと思うし、性格や信条として、私はそういう声の大きな人に対して絶対に服従しないし影響も受けないのだけれど、先日の選挙戦での騒ぎや日々ニュースになるパワハラの話を聞いていると気持ちが暗くなる。その声を聴いて身をすくませているたち、その声に影響を受けて右往左往する人たちの気持ちを見たり想像するだけで、こんなことならネットなんてないほうが良いんじゃないかとさえ思う。

声の大きな人たちの言葉をどんどん拡散させるためにネットがあるのだろうか。
私は逆であってほしいと心から思う。

誰にも届かないはずの小さな声。そんな声が、真夜中の森の中の、誰も知らない小さな湖の水面を少し震わせる。それは誰かの生活に関係も影響もないし、ほとんど誰も気が付かない。けれど、その波は確かにそこにあるし、その波はいつまでも経っても減衰することがなく、小さな波紋をいつまでもそこにとどめている。そしてそれは、たまたまそこを通りかかった森の旅人たちの目にとまる。その旅人たちもそれをいたずらに波紋を増幅させるなんて野暮なことはしないで、その湖の水を少しだけすくって喉の渇きを潤す。そして静かにその場所から立ち去っていく。

小さな声を小さな声のままとどめることができる、森の中の不思議な湖。

そんな湖のある静かな森に、私は住みたい。




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