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燃え上がる炎と地域アイデンティティ - 2024あばれ祭体験記③

キリコの動き出しから最後まで、キリコの下から外れることなく、まずは1日目昼の部を乗り切ることができた。
ひと仕事を終えたことに我ながら関心する。
まだ1日目の前半が終わったにすぎないのだが、ここまでの大きな達成感を得られるお祭りも珍しい。
周囲でも、担ぎ手同士でここまでの労う様子もあった。

「次は21:00に集合でお願いします!」

キリコの進行が順調だったのか、昼の部が終了した時点でまだ16:00であった。次の集合までかなりの時間がある。
夕食休憩と、"ヨバレ"の時間の到来である。

"ヨバレ"という風習

スカラマンガに集う人々。いろいろな属性が混じるのが面白い

"ヨバレ"とは、やはり能登地方のお祭りに特有の風習である。
検索すると、「祭りの日に親戚や友人らを多数自宅に招いて、ごちそうでもてなす習慣」ということらしい。
字面だけではその独特性がわかりにくいが、「親族や友人らを多数自宅に招く」という点がポイントなのであろう。
なるほど、地区の人口規模に対して担ぎ手が多い印象なのも、この風習と関係があるのかもしれない。

言うまでもなく、お祭りにお酒はつきものであり、ここあばれ祭においても例外ではなかった。
キリコの巡行中は地元の銘酒「竹葉」の一升瓶の回し飲みが飛び交っていたし、まとまった休憩の際に給水として配られる飲料にも、高確率で缶ビールが混ざっていた。

給水として一升瓶が回し飲みされる

「酒を飲んで酔うほど神様に近づく」といった主旨ももちろんあっただろうが、基本的にはあくまで給水手段であり、キリコ担ぎというストイックなスポ根アクティビティに対する命綱のような位置づけに見えた。
反面、ヨバレのお酒は、まさにお酒の本懐、コミュニケーションの潤滑油、相互交流のためのお酒ということになる。

ちなみに、私がこれまで知る、お祭にまつわる会食は、お祭り前夜の決起集会的な宴会をはじめ、お祭りが終わった後の「直会(なおらい)」や、片付けまで終わってひと段落したあとの「鉢洗(はちあらい)」があった。
これらは、基本的には始まる前か終わった後に、関係者で揃って開催される類のものが大半であった。
それがこの地方における「ヨバレ」では、お祭りの途中のこのタイミングで、一度各家庭に帰り、"イエ"単位での会食が前提とされていることが対照的で面白い。

会食が終わった後もまだまだ、夜の本格的なキリコの巡行を控えているわけである。
小学校時代、運動会の日のお昼に、家族や友人とお弁当を囲む感覚に似ているかもしれない。

もちろん、誰もが"ヨバレ"に参加できるわけではなく、そこにはきわめてウェットな人間関係が前提となるはずだ。
つまり、何の後ろ盾もなくこの地域に飛び込んだのでは、運良くキリコに触れることができたとしても、ヨバレの対象になることは難しかっただろう。

川原町のキリコ担ぎに参加していた我々グループは幸いにも、先述した辻野さんにお招きいただき、仕事場にお邪魔させていただけることになった。
そこでは、オードブル類と、冷蔵庫狭しと詰め込まれたアルコール類がご用意されていた。

能登町の片隅で

これまでの記事で記したように、大原さん・助川さんという2名の発起人の発信に共鳴したものの、互いには初対面同士というケースが多かったのが我々メンバーである。
まずは互いにここまでの数時間の苦労を労った。

また、会場には、我々チームだけではなく、辻野さんを取り巻く関係者の皆様として、川原町の町会はもちろん、町の内外を問わず、能登をフィールドに多様な活動をするプレイヤーがどんどん訪ねてきた。
輪島塗職人、七尾市のまちづくり会社、教育NPOの代表・・・。
初対面の方々と、辻野さんからの「Let's go!」という合図にあわせて、とにかく乾杯を重ねた。

昨日まで知らなかった同士がちゃぶ台を囲む

お酒を囲む時間は不思議なもので、それまで知りもしなかった、遠い小さな町で、お祭りや地域をネタに大騒ぎする幸せな時間は、あっという間であった。
年に一度のお祭りの日という口実に、まったく知らない方々が同じ空間に集ってくる面白さもたまらない。
こんな営みが繰り広げられているのは、人口わずか2万人に満たない石川県能登町のほんの片隅であるという事実が、この奇跡のような時間の価値をいっそう高めてくれる。

日常には存在しない光景

ヨバレから外に戻る。等間隔に並べられたキリコの灯りがあまりに美しい

21:00が近づいて再びキリコに戻ろうとすると、町の空気が少し変わっていることに気づく。
すでにキリコには灯がともされ、近くで打ち上げられる花火とあわせて、町に幻想的な空気をもたらしていたのだ。

これからキリコは海沿いの道を進み、いやさか広場を目指すこととなる。
そこでは、1日目、いや、2日間あわせても最大の見せ場かもしれない、大松明を囲んでの乱舞が待っている。

燃えるいやさか広場。

キリコを担ぎながら広場に近づくにつれ、田舎町の暗い夜を、空を焦がすほどの火柱が照らしている様子が、遠目にもわかる。
それは間違いなく、日常には存在し得ない炎である。

こんな光景を見る機会が、一生のうちにあるだろうか。
こんな大きな炎を見ることが、この先にあるのだろうか。

広場に到着すると、さらに信じられない光景が広がっていた。
いくつかの巨大な松明(5本の柱松明と3基の置松明らしい)が、激しい火の粉を撒き散らしながら燃え上がっており、その周辺をキリコがうねるように動いていたのだ。
夜とはいえ真夏の蒸し暑い空気を、松明が文字通り"焦がして"おり、松明そのものに近づかなくとも肌にヒリつきを感じる、そんな熱さを感じた。

キリコ最大の見せ場

乱舞の様子。何が起こっているのだろうか。

この時間、瞬間こそが、担ぎ手、地元の方々が待ちに待った瞬間であることを悟った。

今はお祭りの初日であり、"宵祭"と呼ばれるような前夜祭である。
2日目である明日が本番のような位置付けであり、御神輿が本格的に出されるため、キリコはどちらかといえば御神輿を支える"従"の性格が色濃く出る。
そして御神輿を担ぐことができるのは、地域でほんの一握りの人間に限られる。
すなわちキリコにとっては、1日目の夜が最大の見せ場ということになるだろう。

乱舞の様子を見物する方々。

そのためか、担ぎ手はもちろん、大半が地元民と思しき見物客の顔も、キラキラと輝いているように見えた。炎と火の粉のせいだけではないだろう。
担ぎ手と見物客の興奮が入り混じった熱狂が感じられた。いや、熱狂という簡単すぎる単語で表現しきれるものだろうか。
少なくともあれは、あらゆる町に等しく存在する空気ではない。明らかに違っていた。

降りかかる火の粉と込み上げる笑い

担ぎ手である私の感想としては、広場にいる間じゅう、とにかく笑えて笑えて仕方がなかった。
燃え上がる松明に近づく熱さや、逃げ場もなく降りかかる火の粉が肌に触れることによる熱さも、何もかもが笑いの種なのである。
キリコを担ぐための持ち場があったために、いくら熱くとも力を抜くわけにはいかなかったという状況のせいかもしれないが、決して痩せ我慢の類ではない。

間違いなく熱いのだ。さらに、無数に降りかかる火の粉に対して、こちらはTシャツに短パンという姿である。
顔はもちろん、四肢の大部分が素肌剥き出しなのだ。
ヨバレの席で多めに摂取しておいたアルコールも、痛覚を鈍らせるほどには至っていない。
むしろ熱さも痛みも、馬鹿正直なほど伝わってくる。

しかし、このエクストリームな状況にどうしても笑ってしまったのだ。
あれはなぜだったのだろう。
強烈な体験を通じて"地域"というものを味わえている実感だったのか。
今からすればきっと、意味がわからなくて笑えていたように思う。

そもそもあばれ祭は、なぜこのような無茶なプログラムになっているのか。
キリコを担ぐことの意味は、少し考えれば理解できる。
奉燈として、神様を載せた御神輿を先導するのだろう?
案内という役割なのだ。それほど想像に難くない。

しかしなぜそんな、案内役にすぎないキリコがキリコだけで、燃える松明を囲んで暴れなければならないのだ。
危険であるとか以前に、なんの意味があるのだ。
公式な説明では、「火の粉を浴びることでご利益がある」という。
そんなことが、理由に本当になっているのだろうか。

思うにこの儀式は、もはや信仰・宗教上の目的を超えた意義に至っているのではないか。
担ぐ人も見る人も関係なく、全員が共通で体験する時間と空間を、文字通り各々の記憶に焼き付け、”このやばい営みこそが我々の地域なのだ”と、地域のアイデンティティを強化する効果があるのではないか。

※静止画で表現し切れるものではないので、今年のあばれ祭の様子を撮影されていた方の動画を貼付する

1日目終了

この乱舞を終えると、各キリコは町に戻り、静かに、各町会の出発場所に戻っていくことになる。
乱舞の余韻が少しずつ引いてきたのか、このタイミングでようやく、自らの身体に浴びた火の粉や火傷痕に気づき始めるような担ぎ手も見られ、笑いも聞こえる。

出発場所に戻った川原町キリコ

ほどなく、1日目のゴールに到着した。川原町の出発地点に戻ってきたのだ。
この時点で23:00を少し回ったところだった。
気づけば、一日中聞こえていたお祭囃子が、すっかり小さくなっていた。

(記事・今場)

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