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傾斜を進むキリコ - あばれ祭体験記④

さて、あばれ祭も2日目である。
2日目こそがお祭り本番であり、酒垂神社、白山神社という2つの神社から御神輿が出され、スサノオノミコト(牛頭天王)が祀られている八坂神社へ入っていくというシナリオである。
1日目は事実上の主役のように見えたキリコも、2日目は、御神輿の前後に並んで隊列を支えるという"従"の役割に回ったように見える。

昨夜は23時頃まで全力のキリコ担ぎであった。
この時間まで動きがあるお祭りというのも初めてである。
疲れを翌日に残すことが不安であったが、昼のキリコ巡行がスタートするのは1日目2日目ともに13時である。お昼まではゆっくりできるわけだ。
荒々しさとストイックさが目立つあばれ祭りのプログラムも、この点は良心的に思える。

石崎町からの援軍

2日目の大きな出来事は、我々パーティに、七尾市石崎町の「石崎奉燈祭(いっさきほうとうまつり)」で西一区の運行を担う青年団の3名が加わったことである。
青年団の支部長を務める西田さんが、石崎奉燈祭の催行について昨年11月頃からマツリズムの大原とやりとりをされていたようで、そのご縁から派生したものだという。

同じ能登のキリコ祭りである「石崎奉燈祭」の担い手3名。

この3名は、私が1日目に参加していた川原町のキリコに入ることとなった。
1日目だけで川原町を去ることに多少の罪悪感があった私だが、これにより圧倒的な戦力強化となるのだろう。何の問題もなかった。

ちなみに、能登町宇出津と七尾市石崎町はそれほど近いわけではない(隣接する自治体なので遠くはないのだが、少なくとも隣町というレベルの距離ではない)が、歴史的に深い縁があることを強調しておきたい。
今回のこの関わりは、非常に胸熱なのである。

最初の記事において、あばれ祭におけるキリコの高さは6〜7mと述べたが、実は宇出津ではかつて10mを超えるキリコが担がれていたという。
しかし近代化が進み、大正10年になってまちなかに電線が張られたことで、この巨大キリコが宇出津のまちなかを巡行できなくなってしまった。
出番を失ったこの巨大キリコが引き渡されたのが、同じ漁師町である七尾市石崎町なのだ。
(参考:あばれ祭HP

他方の石崎町であるが、もともとはキリコではなく、京都祇園祭りの流れを汲む山車が出される祭りが開催されていたらしい。
しかしこの山車は度重なる大火によって焼失してしまったため、中止を余儀なくされたという。
そのような中、宇出津から巨大なキリコを迎え入れたというわけだ。
(参考:能登のキリコ祭りHP

そんな「石崎奉燈祭」は現在、そのキリコのあまりの巨大さが特徴的なお祭りとなっている。

石崎奉燈祭のキリコ。電線どころの騒ぎではない

ここまでご紹介しておいて何だが、前述のとおりこの3名は川原町に参加され、そのまま宿に戻らず帰路につかれた。
したがって私は、あばれ祭の期間中はこの石崎勢と関わることはできなかったのだが、ほぼ1ヶ月後の8月3日、この「石崎奉燈祭」に西一区から参加させていただくこととなり、再会を果たすこととなる。

丘の上の崎山二丁目

さて、2日目の話に戻ろう。
私がこの日にお邪魔した町会は、崎山二丁目であった。
そこは、まちなかから少し離れた、小高い丘の途中にあった。

1日目の崎山二丁目で担いだメンバー。

初日に崎山二丁目で担いでいたメンバーから、キリコのスタート地点(つまりゴール地点でもある)が海抜約30mにあることを聞いていたところだった。
崎山二丁目のキリコ場所に着くと、キリコが非常に斜めであることがわかる。そこには確かに傾斜があるのだ。

写真では伝わりにくいが、傾斜の途中にキリコが鎮座していた。

ところが変われば、町の性格も変わる。
昨日の川原町は、周辺には酒造会社をはじめとした事務所も商店も見られる、どちらかといえば"まちなか"らしい印象であったが、ここ崎山二丁目は、比較的敷地の大きな住宅が並ぶ住宅街である。
多くの担ぎ手は白い半纏に袖を通しており、昨日の川原町(黒のTシャツ)との偶然の対比を勝手に感じ取っていた。

改めてキリコを見上げると、「智仁勇」の三文字が掲げられていた。関係者の背中も同様だった。
中国の四書の一つ「中庸」からの言葉で、徳の中でも重要な3つの徳である「智(先を読む)」「仁(相手の立場で考える)」「勇(勇気)」を示したものらしい。

今回のツアーにおける崎山二丁目側の窓口を務めてくださった、若者頭の小路(しょうじ)さんにご挨拶する。
小路さんは素早く、「ここお願いします」と、我々それぞれの持ち場をご案内してくださった。
私は、キリコの後方一列目、内側のマスの中に持ち場を確保した。

キリコの山下り

あばれ祭2日目のおおまかなシナリオは、キリコが各町会の拠点をスタートし、所定の順番になるよう整えながら八坂神社に到達した後で、また拠点に戻ってくるという明快なものである。

2日目のキリコ及び神輿の順番(あばれ祭HPより)

ただ、崎山二丁目は距離的に八坂神社から遠く、かつ高海抜であるというロケーションから、長く苦しい道のりになるであろうことは容易に想像できた。(以下GoogleMapから、八坂神社との距離感を見てほしい)
他のメンバーとの雑談の中で、2日目の夜の部が終了するのはなんと午前2時や3時だという噂も聞き「まさか」と思っていたが、内心身構えていたものだ。

23:00頃に終了した1日目でさえかなりの消耗感であった。動けないということはないが、肩や太ももが本調子でない感覚はある。
しかも、本日はそれに加えて傾斜移動である。果たして身体はもつのだろうか。
余談だが、心に残るお祭りの重要な要件として、日常とはかけ離れた身体的な負担、それを乗り越えることによる達成感というものがあるのかもしれない。

2日目のキリコ担ぎが始まった。

手前味噌であるが、私は1日目の川原町での体験を通じてある程度の自信はあった。
少なくとも、キリコ担ぎの基本的な呼吸や、独特の掛け声はかなりマスターしたつもりであった。
特に掛け声については、誰が主導しなくとも、疲れて誰もが静かになっていたとしても自分から大声で口火を切ることができていたので、一定の自負はあった。

結果から言えば、幸いにもその経験はそのまま活かすことができた。
町会は違えど、当然ながら同じお祭りであり、担ぎ方も掛け声も共通であった。
(同じお祭りであるとはいえ町会が違うので、各町会がガラパゴス的に特徴を育てることで各町会の個性が際立つというケースもあったのではないかと想像した)
ここ崎山2丁目については、基本的なところは貢献できると思うと嬉しかった。

しかし、やはり明らかに違うファクターがある。ここは緩やかながら傾斜地なのだ。
スタート地点から交差点(次のリンク地点)までがかなり急な短い傾斜で、そこからまちのメインストリートへ降りていく一本道は、緩やかではあるが長距離の傾斜である。
この地形条件は、キリコの担ぎ方にそのまま影響する。

ただ歩くことを例に考えてみても、平地よりも傾斜を進むほうが負担が大きくなることは想像できる。
ましてや今回は、キリコというモンスターを担いでの歩行である。足がきつくなるのは当然だ。

加えて、傾斜地に立った各担ぎ手が、平地とただ同じように担げば、傾斜に対して平行な(≒スムースな)移動ができるわけでもない。
キリコの前方を低く、後方はやや高く、という状態をキープすることで、傾斜と平行な状態を保ちながら進まなければならないわけだ。

そもそも平地でさえ、数十人の担ぎ手はすべて身長が異なることから、地面に平行な状態を作ることは難しかった。
しかもこの身長の違いが、各担ぎ手に不平等な負担を与える。肩の高さがちょうどよい担ぎ手には適度な負担で済むのに対して、適正身長よりも高い担ぎ手にはより大きな重みか、あるいは高さを合わせようと屈むことによる足への負担がのしかかるのだ。
左右に振れることも珍しくない。
そんな過酷な状況下、キリコの"足"を地面に引き摺らないように、"慎重に""全力で"担ぐという向き合い方が求められたのだ。

丘を出発したキリコについては、より厳しい傾斜地という条件下で、その努力が問われることになる。
足だけでなく肩にも何倍もの負担がかかる。

"煽り"のタイプの違い

そのため、序盤のキリコ担ぎはかなり苦戦したように記憶している。
1日目の序盤と同様、少しずつしか進まない。
しかし、ほどなくして、少しずつ進むようになってきた感覚もあった。
その大きな要因はさまざまあると思うが、ここでは"煽り"のあり方を取り上げたい。

前回の記事で書いたように、キリコにおいて担ぎ手同士の顔がなかなか見えにくく、その中で呼吸を合わせながらキリコを担ぐことはきわめて難しいことである。
したがって、担ぎ手ではない立場の方が重要となる。
「やーーーーー、さーーーの!!」と担ぎ上げるための合図を出したり、掛け声を先導したり、担いでいない時に担ぎ手のモチベーションをくすぐるような"煽り"をかけたりといった役割である。
私見だが、この"煽り"に人柄や地域の性格が出るのだろう。この"煽り"の作法が、昨日と今日で違ったように思う。

2日目、崎山二丁目における"煽り"の役割は、先述した若者頭の小路さんが担われていた。
(他にも近い役割の方がいたようにも見受けられた。明確に分担されているかどうかなどはわからない)
小路さんの"煽り"には、荒々しい印象はほとんどなく、どちらかといえば”おもてなし”とも形容できるものであった。

一例を挙げる。
キリコが止まった直後に、「素晴らしかったですね!!」「最高の担ぎでしたね!!」
再開する前には、「まだいけますか?それではよろしくお願いします!」
などなど。
声は張られていたものの、怒鳴り声など一切記憶になく、柔らかく丁寧な言葉を担ぎ手にかけてくださるのである。

担ぎ手にとって気持ちの良いツボをご存じなのかもしれない。
小路さんにうまくコントロールされているだけなのかもしれないが、少なくとも当日にそんな発想をする余地もなかった私は、結果として笑いながら気持ちよく担ぐことができた。
周囲の方々も、きっとこうした言葉で奮い立つところがあったのだと感じる。
今振り返れば、終始雰囲気の良いキリコだったことが思い出される。

ただ、やはり傾斜移動の負担は大きかったのかもしれない。
あるいは夜の部の大移動に備えた予定通りだったのかもしれないが、14:00過ぎに出発した崎山二丁目の昼のキリコは、以下の付近で、15:30頃という驚きの短時間で終了を迎えた。

夜の部に向けて、20:30に再集合するようアナウンスがあり、長時間の休憩に入った。

(記事・今場)

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