終章・極限のキリコマラソン - あばれ祭体験記⑤
再集合の時刻として指示された20:30になった。
昼の部が終わって約5時間ぶりに、崎山二丁目のキリコの休憩地点に戻った。
昼間とうってかわってすっかり暗くなった7月の夏空を背景に、規則的に並ぶキリコの灯が幻想的な雰囲気を演出していた。
時間は少し前後するが、2日目の夜になっていよいよ、(神事としての)あばれ祭の主役とも言える2基の御神輿が動き始めていた。
どうやら崎山二丁目は、神輿が出される酒垂神社、白山神社のうち、酒垂方に属するらしい。
夜の部の直前の時間帯に、酒垂方の御神輿の出発地点である御旅所(神社本殿のある敷地から離れた、神様が休憩する場所のことを「御旅所」と呼ぶことが多いが、あばれ祭における正確な意味合いはわからない)で、その出発の様子を見物することができた。
その光景はたいへん異様であった。
上裸にサラシの男衆が、焚き火のそばで、まさにこれから巡行が始まる御神輿の担ぎ手を選定する儀式を執り行っていたのだ。
どうやらすべての男衆が担げるわけではなく、この場で選ばれた人間に限られるらしい。
リーダーと思しき男性の前に、整列した候補者が「お願いします!」と、一人ずつ出る。担ぐ準備ができているのか否かがジャッジされるのだ。
リーダーに認められた者のみ、黄色の襷が渡され、正式な担ぎ手になるという流れである。
この儀式、外から見ている限りでは、さっぱりわけがわからない。
認められるかどうかの基準がどこにあるのだろうか。
「お願いします!」以外に何のやりとりもないので、理不尽にも見える。
この異様さも、あばれ祭りが奇祭として注目される理由なのだろうか。
とにかくヨソモノが口を挟む余地はない。こういうものなのだろう。
儀式が済むと、「チョーサー!!」「チョーサー!!」の掛け声のもとで、神輿は風のように走り去っていった。
キリコマラソン
崎山二丁目のキリコに戻ろう。
キリコはこれから、八坂神社に向かって巡行することとなる。
重量物を抱えての長距離移動の開始である。
出発地点はまだ一定の海抜があったが、まちなかに降りてくると、すぐに他地区のキリコとも合流する。
まちなかのメインストリートと思しき県道137号線だが、景観ルールが存在しているのか、そのまちなみには焦茶色の一定の統一感がある。
無電柱化されていたこともあいまって、整然とした美しさを有している。
そんな美しいまちなみがあるからこそ、その真ん中でキリコを担げる感動がある。
他のキリコともあわせて、この美しいまちの一部になれている感動を噛み締めることができる。
美しさを強調してくれる暗さも、モチベーションを高めてくれる。
この時間になると、最初に持ち上げた時は確かに不安だったキリコの重さにも、なかなか慣れてくるものだ。
上達を感じるのである。
この変化の背景として、たくさんのキリコが行列になって進む、という状況の重要に気づく。
前も後ろもキリコなのである。
担いでいる立場としては、前のキリコの背中が見えてくると、「追いつけ!」とモチベーションが上がり、それが推進力を生むこととなる。
また、後方のキリコが車間を縮めて、べったり張り付くと、「追いつかれるな!撒け!」とばかりにモチベーションが上がり、やはり推進力となる。
キリコを単騎で担いでいては、とてもこうはならない。
前半のハイライトは、山の裾を蛇行しながら八坂神社へ続く細道である。
キリコ一基がやっと通るくらいの幅員のため、キリコの追い抜き追い越しなど発生しようがないが、このレース状態によるハイテンションが最高潮であるように感じられた。
鼻先にリンゴをぶら下げられた馬のように、担ぎ手が構造的に頑張らざるをえない状況がそこにはあった。
なお、余談ではあるが、この日の崎山二丁目のキリコは、東大生も一緒に担いでいたようだ。
聞けば、教育プログラムとして、能登町を舞台としたフィールドスタディが毎年実施されており、そのOBOGがお祭りに参加していたようである。
若い力が、総勢10名以上はあっただろうか。
中盤の貴重な戦力として、大きな掛け声で担ぎ手のモチベーションを高めてくれていた。
なお、「その②」記事で言及したように、キリコの足が地面を引き摺るとキリコは瞬時に停止するのだが、約2分以内には担ぎ上げて再開することが多く、体力回復の時間にはならない。
しかしたまにまとまった休憩が与えられ、お酒を中心とした飲料や、食べ物も振る舞われる。この休憩がコミュニケーションチャンスである。
八坂神社を過ぎた後の大きな休憩では、担ぎ手同士で労うだけでなく、崎山二丁目の幹部の方に話しかけていただくことができた。
この祭のどうしようもない魅力について、笑顔で教えてくださったのを覚えている。
クライマーズ・ハイ
(担ぎ手がハイになっている反面、現場を物語るキリコ道中の写真が激減していることを、むしろ臨場感としてご理解いただきたい)
さて、最後の坂にさしかかった。
最後と言っても、前回の体験記で触れたように、平地であるまちなか以外は坂なのである。大きく2段階の坂があり、緩やかな長い上り坂を越えた後に、いわゆる心臓破りの急な坂が待っている。
とはいえ崎山二丁目の拠点に向かって、来た道を戻るに過ぎないのだが、平地でもなかなかの距離を移動してきたことによる疲労もあった。
担ぎ手一同、「ここからが正念場だ」という感覚を持っていたことは違いない。
しかし自負もあった。
ここまで担いでこられた自分達なのだ。
八坂神社を越えてからは、キリコを下ろさず、ひと息で100m近い距離を担ぐことができた区間もあった。それも一度や二度ではない。
蛇行の道でも、前のキリコに追いつこうと頑張った結果、実際にべったりと張り付くことかできた。
後方のキリコを突き放す、怒涛の前進もあった。
即席のチームながら、担ぎ手のキリコ担ぎスキルは、瞬間最大風速的に高まっている。
「もう少し頑張れますか?!」と、若者頭である小路さんによる、絶妙にモチベーションをくすぐる煽りもあった。
身体は疲れていても、まるで永久機関のように、身体の底から力を搾り出すことができた。
声出しも大事だ。
もうとにかく、怒鳴るように叫んだ。
先行する掛け声にあわせて続けるのではなく、まるで地元の人間になったかのように、先行する掛け声そのものになって、声を枯らした。
むしろ、それ以外の言葉を出す暇がなかった。
キリコが停まるたびに担ぎ棒を肩から外しても、そこで胸を撫で下ろしたり、弱音を吐く者などおらず、口数は少なかった。
これだ。この状態がお祭りにおける、たまらなく気持ちのよい瞬間だ。
そしていつしか、上り坂も頂上に近づいていた。
この間は奇跡のような区間もあり、難易度の高い登り坂も、疲労に反して驚くほどスイスイと駆け上がっていた。
そして午前2:00に、最後の地点に到達することができた。
総括
我々メンバーは、キリコが終わった直後、例のように車に分かれ、三井の「のと復耕ラボ」へ戻った。
そしてメンバーの多くはそのまま、翌朝の便で東京へ戻っている。
したがってお祭りを十分に振り返る余韻もなく今日を迎えてしまっている。
少し時間は経っているが、2024年のあばれ祭りを、川原町と崎山二丁目という2つの町会を通じて体験させていただいたこの2日間の総括をしておきたい。
興奮はすでに冷め始めており、記憶も薄れ始めているため、少しふわっとしているが、書き殴る。
あばれ祭りはどう考えても"参加すべきお祭り"である。
観るだけでは、能登町宇出津という地域を知ることなどできないだろう。
息を呑むほどのキリコの美しさも、信じられないほどの神輿の荒々しさも、観光資源として消費するのみでは味わうことができない。
疲労も痛みもない安全地帯から"楽しかったかどうか"という尺度で評価して、数日後には記録から消えてしまうのみである。
全国的に知名度の高いねぶた祭りや京都祇園祭と比較してのアクセスの悪さから、せいぜい「ディープな祭り」「マニアの祭り」というコモディティ的な安いレッテルを貼って終わるのみであり、長期記憶には残りようがない。
能登に限らない話であるが、地域をその地域たらしめているのは、そこで活動を営む人々と、その人々が作る文化である。
観光資源は、その文化が消費されやすい形で切り取られた表層にすぎないのに、その表層だけをもって地域の良し悪しを評価することなど不可能だ。コモディティにはランキングが成立しても、お祭りや文化にランキングが成立するわけがない。
そしてそこに確かに存在している文化、地域社会というものを体験したい場合に、飛び込むこと以外に方法などない。
しかしこの「飛び込むこと」の難しさは想像の通りであり、だからこそ地域社会は上述の「観光資源」になるほかなく、消費されてしまうのだろう。
「観光」を超えた「交流」が重要なのに、そこへのアクセシビリティがないのだ。
今回のお祭り体験ツアーの場合は、企画者が事前に各町会との関係性を作っており、これが大きかった。
今回の一日や二日の体験をしたからと言って、被災した地域に対して達観して言えることなどない。
こんな体験をすれば、その地域に愛着も持ってしまう。
お世話になった皆様に会いにまた来たい、また参加したい、と思ってしまうのが当然だ。
主観と感傷にまみれてしまうのだ。
「あばれ祭りは消えてはいけないお祭り」なのだろうか?
そんなことは何と比較すれば言えるのだろう。
「宇出津または能登町は素晴らしい地域」なのだろうか?
主観で地域を語ることは自然だが、それによって生じうる他地域への排他的態度にも慎重にならなければならない。
結局、逆境の中、よくここまでのお祭りをまちぐるみで開催できたものだと、ただただ尊敬するのが関の山である。
安全地帯から、ただただ地域の復旧と復興を祈る気持ちを強めるしかないのである。
ただ、お祭りを通じて遠い地域を体験することによる副作用もある。
お祭りをきっかけに開始したこのつながりが、お祭り以外に波及することを期待してしまうことだ。
そしてあわよくば、来年のお祭りには、さらに関係性を強めたうえで参加したいと考えてしまうことだ。
心に強く残るお祭りを体験したのに、お世話になった担い手たちに「じゃあまたね」と言い切れるドライな人はそう多くはないはずだ。
実際は、「また近く会いたいな」「お互いのことを知ってみたいな」という未練や、ウェットな感情を持ってしまう。
あばれ祭りの激しさと、体験の楽しさと、受け入れ町会の方々に対する印象の良さが、このウェットな感情を余計に強くする。
これを関係人口と呼ぶのだろう。
(記事・今場)
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