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(2018年12月時点の)”テニミュ文化”とは?:第1章


はじめに

  • 本記事含む「(2018年12月時点の)”テニミュ文化”とは?」シリーズは、「テニミュが長く続くなかで、なんとな~くオタクたちの中に生まれた”テニミュっぽさ”みたいな暗黙・共通の感覚って、何?その歴史・変遷はどんなもの?」ということをテーマに、私が2018年12月(=3rd全国立海前編直後)に書いた文章を、単にnoteに移植しただけのものです。

  • 執筆以降(2019年1月以降=3rd全国立海後編以降)に発生した出来事等は含まれていません。
    →個人的には3rd終盤~新テニミュ~4thで、外的要因(コロナ)やテニミュ自体の変化により、かなりこの”テニミュ文化”が変わってきていると思っているので、とにかく「この時点での”テニミュ文化”についての記事」ということを強調しておきます。

  • あまりにも認識が誤っていて世に出したくないものは削除・修正していますが、それ以外は「当時考えていたことそのまま」「順序や構成も変えずに」移植することを意識しています。そのため、わかりづらかったり、当時の筆者の単なる考慮漏れにより含まれていない観点が多々あります。(具体的な考慮漏れについては、本文内で随時簡単に補足していく予定です)

  • ★テニミュに詳しい人に一番読んでおいてほしいアラート
    以下に列挙する通り、「テニミュの全てを知り尽くして・追っているわけではない人間」が書いているので、考慮漏れ以前に視点に大きな偏りがあります

    • ファンダム動向含めコンテンツをリアルタイムで追い始めたのは2nd全国立海前あたり・それ以前の作品は立海の出演公演メインで映像履修

    • 立海のオタクであり、普通にそれ以外の学校の公演(とくに不動峰、ルド吹、六角)は生で見ていない公演が多い

    • 必然的に「各シーズン初期」の動向はあまり把握していない

    • 新テニに関してかなり疎い:ファーステを1-2回見た程度・原作は幸村周りだけ履修

  • 完全なオリジナルの考察ではなく、ファンダム内で既に言われていたようなこと・既出の考察などを引用しつつまとめている側面が強いため、意見・主張の被り、n番煎じ感がかなり強いと思います。

  • その他想定問答と免責

    • なんでこんなnote書いてるの?:快楽のためです♪(こういう話を考えるのが好きで、今後考えるためにもまとめておきたいから)

    • なんでTwitter(X)のアカウントを開示しないの?:この記事を発端に周りの人に万が一にでも影響を及ぼしたくないから

    • なんでわざわざ公開するの?:なんででしょうね照 多分これは普通に承認欲求です照


想定読者

以下を既に知っている人を対象に置きます。

  • 「テニスの王子様」のざっくりとしたあらすじ・登場校

  • 「テニミュ」が「テニスの王子様」のミュージカル化作品であること

  • 「2.5次元舞台」が、「マンガ・アニメ・ゲームを原作とする2次元のものが、3次元の舞台になっているもの」であること

この辺りの説明は完全に省いて当たり前のように固有名詞・用語等出すのでご容赦ください。
※「知らない方は読むな」ではないです!

記事シリーズの全体像

要約

★第0章から比較するとこの辺から圧倒的に長くなってきます。

  • この章では、”テニミュ文化”をとりまく登場人物と、それぞれの関係性をベースに”テニミュ文化”を考えているよ

  • まず、”テニミュ文化”をとりまく登場人物を一旦ざっくり「キャラ」「キャスト」「ファン」に分けてて特徴を整理したよ

    • 「キャラ」とは、原作に出てくるキャラクターのこと。今後の記事ではわかりやすく「原作キャラ」と呼ぶよ

    • 「キャスト」は、現役・卒業問わずテニミュに出たことのある役者のことだよ。今後の記事ではわかりやすく「ミュキャス」と呼ぶよ

    • 「ファン」は、「テニミュの過去作からの一連の流れを(生かどうか問わず)結構見たことがあるファン」と定義して、「過去作の事は知らないが、最近のテニミュ好き」な人たち・単なる原作だけのファンは含まないよ。今後の記事ではわかりやすく「テニモン」と呼ぶよ
      《補足:「テニモン」って「テニミュモンスター」みたいな蔑称だと思ってたけど、もとは2nd跡部役の久保田さんがブログで使い始めた呼称らしい》

  • さらにそれぞれ同士の関係性について考えたよ

    • 「テニモン」と「原作キャラ」:「原作キャラ」の情報量やメディア展開の仕方がテニプリどくとくだから、そのおかげで「テニモン」が「原作キャラ」に持つ解釈がめちゃくちゃ強いよ

    • 「ミュキャス」と「原作キャラ」:テニミュのオーディションでは「原作キャラ」とのパーソナリティ・魂みたいなものの近さが重視されるので、必然的に役者と役の関係が近くなるよ。また、役作りや稽古のアプローチも「本気でなり切る」指導がされる(らしい)ので、より一層強まるよ

    • 「テニモン」と「ミュキャス」は:「ミュキャス」というラベリングは、内定してから卒業した後まで永遠にはがれないよ。「テニモン」は常に「ミュキャス」に対して、「ミュキャスとしてふさわしいふるまいをしているかどうか」審査し続ける特徴があるよ


本文

「キャラ」「キャスト」「ファン」

  • テニミュを取り巻く要素は非常に多岐にわたり、舞台芸術の観点で見れば配役や音楽、振付などを始めとする演出表現、コンテンツビジネスの観点で見ればイベント企画やそのゲスト構成など複数の特徴的要素が複雑に絡み合っている。

  • 本記事シリーズでは、”テニミュ文化”が発生する発端になったメインの担い手を「キャラ」「キャスト」「ファン」だと考える。

  • キャスティングや公演演出など仕掛け側の要素は、この”テニミュ文化”の発生の「後から」ついてきた要素だと考え、後述する。

製作陣(プロデューサーなど)は後述すらされません。「考慮すればよかった」と一番思っている点です。
あと普通に公演要素も”テニミュ文化”発生の担い手のひとつだと思うので、ここは整理不足です。このシリーズの構成の分かりづらさの一番の原因がここな気がしています。なるほど根幹じゃねーの

2024年3月時点の筆者より注釈

「キャラ」の定義

  • 原作の漫画「テニスの王子様」に登場するキャラクターを指す。

  • 「テニミュ」において原作漫画は一番の手本であり、それは役者にとっても例外ではない。

  • 実際に「テニミュ」立ち上げメンバーでもある松田氏は「迷ったら原作を読め、そこにしか答えは無い」と役者に対して指導が入ると言及している。
     《出典:武藤徉子(2014) 「「テニミュ」のオーディションはガチだった! 2.5次元ミュージカルの秘密(後編)」,〈https://ddnavi.com/interview/204774/a/〉(参照2018-12-28)》

  • これは先に述べたように2.5次元舞台ならではの特徴である「再現性」にあたり、「テニミュ」考察の上で欠かせない要素であると考えられる。

  • 上記「テニミュにおける原作キャラ」を呼び分けるために、以後はこの「キャラ」を「原作キャラ」と呼ぶ。

「キャスト」の定義

  • 「テニミュ」に出演経験のある俳優すべてを指す。

  • 呼び分けのため、この総称を以後は「ミュキャス」と呼ぶ。さらに、現在進行形で「テニミュ」の舞台の上に立つ俳優たちは「現役ミュキャス」、過去に出演していたキャストのことを「卒業ミュキャス」と呼ぶ。

「ファン」の定義

  • ここではシーズンをまたいで(生観劇かDVDかを問わず)「テニミュ」の公演を鑑賞し続けることを前提とする。そのうえで、DVDやCDなどの2次利用後の作品などを通して継続的に「テニミュ」を消費したり、公式情報をコンスタントかつ能動的に得ようとする人々を指す。

  • また、過去に「テニミュ」を積極的に鑑賞していたことがあり、現在もSNSなどで偶然最新情報が耳に入る機会がある「元ファン」層も広義には含む。

  • 公演ごとに参入する新規ファン層に関しては、「テニミュ」の長い歴史の中で生まれた文化について考察するという本記事シリーズの主旨から逸れるため、今回は除外する。

  • なお、原作漫画「テニスの王子様」の読者は必ずしもテニミュのファンではないため、以降呼び分けのために、原作漫画のファンは「原作ファン」、テニミュのファンは「テニモン」と呼ぶ。

一旦、ここまでの3者を整理


”テニミュ文化”が発生する発端になったメインの担い手たち

この3者は、上田(2015)の「舞台上にいる役者たちは他でもないわたしたちから認知されることで初めて2次元から飛び出してきた「キャラ」たりうる。 このように演じるものと見るものとが共犯関係を取り結ぶことによってはじめて成立するのが2.5次元なのである」という記述や、「重要なのは、演じる役者と、それを見る観客とがお互いに行間を読み、背景を補うことで”キャラ”をこの世界のなかに受肉させること」という記述からも読み取れるように、2.5次元舞台ならではの役割を担っている事がわかる。
 《出典:ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元 -2次元から立ち上がる新たなエンターテインメント (Kindle の位置No.2730-2734). . Kindle 版. 「あの日の幻 小越勇輝という2.5次元」上田麻由子》

「テニモン」と「原作キャラ」


ここの話
  • 原作ありきの2.5次元舞台ならではの特徴として、既に原作に一定数のファンが存在することは言うまでもない。

  • その中でもテニミュの原作である「テニスの王子様」は、登場人物の特徴的な髪型や髪色、口癖によるキャラクター描写が強く、個性的に描かれている。

  • テニミュプロデューサーの松田は、これを踏まえ『美術手帖 vol.68』2016年7月号にて「(テニミュ製作にあたって)原作にすでにスターがいるのだから、それを大切にしようと考えた」と述べている。

  • そのため、「テニモン」はテニミュを見ればほぼ必然的に「原作キャラ」の重要性を理解することになる。

  • その結果、多くの場合はテニミュと併せて原作や関連媒体も「一通り知っている・消費したことがある」という状態に至る。(テニミュかそれ以外の媒体か、どちらを先に好きになったかは問わない)

  • これを踏まえて特筆すべきは「テニスの王子様」は、この「原作キャラ」に対する「テニモン」の思い入れ・理解度が強い点である。

  • 上田(2015)は、「原作キャラ」について以下のように述べている。

    • <『テニスの王子様』(全42巻)にはキャラクターの家族構成やこづかいの使用例などの詳細なデータが収録された公式ファンブックがあり、これは「.5」巻として、まるで物語の行間を埋めるかのように刊行されている。この「.5」巻は一種のサブテクストとして、誕生日プレゼントやバレンタインチョコレートを出版社に送らせるほどのキャラのアイドル化を引き起こしたり、キャラ同士の関係を想像したりする助けになっている。簡単にいえば、「キャラとつきあいたい」(乙女ゲーム・ドリーム的嗜好)と「キャラをつきあわせたい」(BL的嗜好)という、キャラに対する読者の2種類の欲求に応えているのである。>
       《出典:ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元 -2次元から立ち上がる新たなエンターテインメント (Kindle の位置No.2762-2767). . Kindle 版. 「あの日の幻 小越勇輝という2.5次元」上田麻由子》

  • 「原作キャラ」に対する「テニモン」の思い入れ・理解度を語るうえで、テニスの王子様の様々なメディア展開のうちの1つである恋愛シミュレーションゲームの存在も、この欠かせない。『学園祭の王子様(2005年)』『ドキドキサバイバル 山麓のMystic(2008年)』を始めとする全7作のゲーム作品は、”キャラクターとの恋愛”を主旨とし、主人公に自由に名前を付けることが出来る。

  • テニミュの舞台公演以外の部分で消費されるこのようなメディア展開は、「テニモン」と「原作キャラ」が距離を縮めることを全面的に肯定している。

  • こうした「原作キャラ」の情報量の多さ、アイドル性、そして親密な距離感は「テニモン」ひとりひとりに独自の「解釈」をもたらす。

    • 例えば、原作主人公・越前リョーマのライバルにあたる跡部景吾という人物は、作中で「キング」を自称する所謂”俺様キャラ”であり、多くの人から「跡部様」と呼ばれるほど”崇拝”されている。すると、「テニモン」の認識の中で「跡部様はこうあるべき」といったある種のルールのようなもの(=解釈)が生まれる。

  • 個人によって解釈への拘りの強弱はまちまちであり、全般的に特に拘りのない者もいれば、「原作キャラ」全員に強い拘りがある者、特定の贔屓の「原作キャラ」に対してのみ拘る者など様々である。

  • 解釈の存在は、観客の「原作キャラ」に対する思い入れを強化するだけに留まらない。

  • 解釈から外れた「原作キャラ」の言動によって、観客は時に原作に準拠した公式メディア展開物をも批判の対象にする。

  • この批判の果てに観客は、「解釈違い」という言葉を以て幻滅することもある。

  • 原作キャラクターの一人称が「俺」であるはずが、何らかのミスにより「僕」とされただけで不満を抱かせてしまうほど、解釈の認識は根深く存在する。

  • このように「原作キャラ」と「テニモン」の関係性は、”テニミュ文化”を形作る大きな要素のうちの一つである。

テニプリの「原作キャラ」は「悲しいね君が近すぎて」という歌にあるように「キャラが我々読者を認識・自覚している」ことを匂わせる描写がされることがあること・原作者のが進んでその描写を行ったり、キャラを「実在しているように」扱うことがここで考慮から漏れています。
実際はこの辺も、本文内における「原作キャラ」「テニモン」の関係を強める要因として大きいと思います。

あとはキャラの話からややそれますが、原作はキャラの試合をメインに描いたもので。「テニスの試合」も「演劇」も「客として観に行くこと」という行為が共通しているので、題材として非常に親和性が高いことも寄与していそうです。この親和性はスポ根系・アイドル系全てに言えますが。

2024年3月時点の筆者より注釈

「ミュキャス」と「原作キャラ」


ここの話
  • 「ミュキャス」と「原作キャラ」には例外なく密接な関係性が存在する。

  • まず、その関係性は「ミュキャス」誕生のプロセスであるオーディションから意識されている。

  • テニミュは、ほとんど無名の、つまり観客に芸名の存在のイメージがない俳優を、オーディションでキャスティングする。

  • 芸能活動を始めたばかりであったり、大きな活動経歴が存在しない名もなきキャストたちは、「原作キャラ」になりうる覚悟やオーラ、振る舞いなどの「種みたいなもの」を持っているかどうかという尺度で選ばれていくという。
     《出典:田中東子(2016) 「2.5次元ミュージカルを牽引する「テニミュ」の革新的なメソッド」,『美術手帖 vol.68』2016年7月号, p.18, 美術出版社 松田誠の発言》

  • そうして選ばれた(=テニミュに内定した)キャストたちは、稽古やトレーニングを重ね、初めて「現役ミュキャス」として「テニモン」にお披露目される。

  • その後、任意の期間(シーズンによって変動するうえ、事前には告知されることはない)「原作キャラ」を舞台上に体現し終わった「現役ミュキャス」は、次の代の「ミュキャス」へとバトンを渡し「現役ミュキャス」としての幕を下ろし、その後は「卒業ミュキャス」としての人生が始まる

  • ここまで述べたのは「ミュキャス」という概念がテニミュから与えられ、その返還をテニミュから求められるという、「ミュキャス」にとっては受動的なプロセスである。

  • それだけでなく「ミュキャス」から「原作キャラ」歩み寄るために役作りという形で行われる能動的なプロセスも存在する。

  • 平たく役作りと形容してしまえば、舞台・映像問わず「演じる」という行為に関わる者なら全員が行わなければならないものであるが、「ミュキャス」は「日常生活でその原作キャラクターの癖が出てしまう程までに入念に役作りを行え」と指導をされるのである。
     《出典:田中東子、須川亜紀子(2016) 「光と音とダンスでマンガを舞台に変換する」,『美術手帖 vol.68』2016年7月号, p.30 美術出版社 上島雪夫の発言》

  • 演劇学者の河竹登志夫(1978)は、役者には「心から入り、役のなかに自己を完全に没入させるタイプと、形から入り、役を意識的に表現して見せるタイプ」の2通りあると述べている。
     《出典:河竹登志夫著『演劇概論』(東京大学出版会、1978年)123頁》

  • 河竹の論の中では、どちらの形をとるかはその役者の適性次第であると述べられているが、オリジナル演出を担当した上島の発言には以下のようなものがある。

    • <ミュキャスにはキャラクターとして生き抜けと言っています。(省略)凄い演技力と経験でその役を表現する、というようなことは彼らにはまだできない。なりきる以外ないんですよ>
      《出典:田中東子、須川亜紀子(2016) 「光と音とダンスでマンガを舞台に変換する」,『美術手帖 vol.68』2016年7月号, p.30 美術出版社 上島雪夫の発言》

  • この発言を鑑みるに、テニミュにおける指導は「ミュキャス」に、河竹の論における前者「心から入り、役のなかに自己を完全に没入させるタイプ」であることを求めているものであると言える。

  • また、筒井(2015)は演じる役と俳優の関係性についてドラマ『相棒』を例に取りながら、あえて役作りをせずに演技に臨むケースを紹介したが、テニミュではこのようなことはまずあり得ない。
     《出典:ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元 -2次元から立ち上がる新たなエンターテインメント(Kindle の位置No.3145). . Kindle 版.  二・五次元の自律性とキヤスト=キヤラクター 筒井晴香》

  • 実際、3rdシーズンで8代目越前リョーマ役を務めた古田一紀は、「演じてるという感じはないかな。リョーマはリョーマで”いる”。だから、リョーマになるだけ」と語った。
     《出典:須川亜紀子(2016) 「越前リョーマとして媚びずに立つ」,『美術手帖 vol.68』2016年7月号, p.36 美術出版社》

  • また、3rdシーズンで仁王雅治(立海大附属中学校)を演じる後藤大は、自身のブログにて「自分は右利きですけど、(左利きの仁王を演じるにあたって左手を意識的に使うようになったせいで)左手でご飯食べたりしないと、もはや不自然に感じて来てます」と述べている。
     《出典:後藤大(2017) 「後藤大オフィシャルブログ 後藤大の大冒険」2017-05-03の記事, 〈https://ameblo.jp/gotoh-dai/entry-12271335878.html〉, 2018年12月29日アクセス》

  • この役作りアプローチの中で、「テニモン」と「原作キャラ」で触れた「原作キャラ」の解釈が「ミュキャス」の中にも生まれる。

  • それを垣間見ることができるのがベンチワークである。

  • ベンチワークは、コート上で行われるテニスの試合の傍らで、ベンチに座った控え選手や非レギュラー選手が試合を見守る、というていで設けられている。

  • 本筋の流れである試合を表向きのメインとすれば、ベンチワークはもう1つのメインと言っていいほどに見どころがあり、それ目当てに公演に足を運ぶ観客も少なくない。

  • そこでの振る舞いは殆ど全て「ミュキャス」達に委ねられており、「いかに原作キャラクターとして存在しているか」を求められる。試合の流れにどのような反応をするか・舞台上の他キャラクターとどのような交流するか・どこに(誰の隣に)座るか・とういった座り方をするか等の一連の言動を「原作キャラ」に則って為さなければならないのである。

  • 他にも、同様にミュキャスが原作キャラクターに対する解釈を披露する場として、公演前後にミュキャスが会場内において日替わりでアナウンスする「前/後アナ」、幕間に閑話休題的に挟まれる『テニミュ』オリジナルのやりとりである「日替わり」などが挙げられる。

  • このように、「ミュキャス」と「原作キャラ」の間には深い関係性があることは自明である。

  • そこには単なる演じる者と演じられる者の関係を超えて、テニミュであるからこそ生まれる密接なものが存在している。

この時に既にあったはずなのに漏れていることとしては「運動会」がありますね。これはベンチワークの真骨頂であるように捉えています。

また、考慮漏れと言うかこれは本当に直近の情報なので仕方ないですが、4th関東立海を観劇した、3rdジャッカル桑原役の川崎勇作さんの観劇後の感想として「自分が演じた役を4thの新しい役者が演じている様子、その公演を見て、”俺たちの中からキャラが完全に消えていった”感じがする(レポに基づいた超要約)」だと語ったことから、やっぱりミュキャスと原作キャラの関係性ってすごく強いと思います。

ただこの辺はテニプリ原作ならではなのか、他の.5舞台も変わらないのかはちょっと疑わしいというか、役者さんに詳しく聞かないと分からない上に、聞いたうえでも主観の影響が大きく完全に比較はできないと感じてきています。

2024年3月時点の筆者より注釈

「ミュキャス」と「テニモン」


ここの話
  • 「テニモン」と「ミュキャス」の関係についても、ここまでの話を踏まえた、テニミュならではの特徴がある。

  • はじめに両者の関わりがどのような形で「始まって」いくかを時系列に沿って追っていく。

    1. まず、先述の「内定ミュキャス」=テニミュに出演が決まったが、まだまだ公演にて「テニモン」にお披露目されていない「ミュキャス」は、集英社の月刊誌『ジャンプSQ.』にて「名前だけ」発表される。

    2. この情報公開を受けた「テニモン」は「内定ミュキャス」の名前だけを頼りに、インターネットを使い顔写真や生年月日、身長などの情報を収集する。

    3. 中には集めた情報を一覧に纏めSNSに公開する「テニモン」もおり、その画像が拡散されることで更に「内定ミュキャス」の発表を知る「テニモン」が増えていく。

    4. この時点では名前以外の情報が一切浮かび上がってこない役者も存在するにもかかわらず、全身全霊をかけて情報収集し「原作キャラ」と顔や慎重が近いか・「原作キャラ」同士の身長差はどこまで再現されているか・ミュキャス本人の年齢はいくつかなどを”審査”する。

    5. このキャスト発表と同時に、役者本人が「内定ミュキャス」としてSNSで発信することが許される。この際彼らは、「内定ミュキャス」としての意気込みを一斉に投稿する。

    6. これ以降は、「ミュキャス」側からテニミュ稽古や他の「ミュキャス」とのプライベートでの食事、その時点で上演中のテニミュを観劇に行った様子が発信される。

  • ここまでが「内定ミュキャス」と「テニモン」のかかわりの開始点である。

  • このフェーズで「内定ミュキャス」から「テニモン」へ、「自分たちがミュキャスとして過ごす様子を見せてあげる」行為が始まる。

  • また、「テニモン」も「内定ミュキャス」に対して、「ミュキャス」としてのふさわしさを審査する。


  • 次に待ち受けるフェーズは、公演が始まり、舞台上で初めてお披露目されてから、つまり「現役ミュキャス」としての期間である。

  • ここからは、前章で述べた「原作キャラとテニモン」で述べた解釈の存在が軸となる。公演中の演技やダンス、歌唱、先に述べたベンチワーク、テニミュ公式SNS、「ミュキャス」本人の個人SNSに至るまで、「テニモン」が「原作キャラ」の解釈に一致しているかどうかの審査が本格的に開始する。

  • 野中(2015)は、この審査のプロセスについて次のように述べている。

    • <舞台に関しては、「本日の公演の様子」がさまざまな角度から口づてに伝えられる。それがミュージカルなら、その時点で劇場に足を運ばないと聴けない、題名も発表されていない曲について、ファンのあいだで仮題ないしは通称が編み出されていく。また、作品本篇に加えてバックステージ映像がソフト化されるだけでなく、いまではブログやTwitterでキャストの素顔(とされるもの)が日々発信され、ファンはそこに現れるパーソナリティを読み取る。キャラクターとの重なりだったりギャップだったり、垣間見える人間関係だったり。>
       《出典:ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元 -2次元から立ち上がる新たなエンターテインメント (Kindle の位置No.3057). . Kindle 版. 2,000,000 Tennimu Fans Can’t Be Wrong (Ihope) ミュージカル『テニスの王子様』と二・五次元ファンダムに寄せて 野中モモ》

  • この審査によって、「ミュキャス」のふるまいが「テニモン」の解釈とから乖離した場合、「解釈違い」という言説を以て批判が行われる。

  • ここで興味深いのは、暗黙の了解として(少なくともそういった批判を行う当事者の間では)「テニモン側の解釈の方がミュキャスの解釈よりも正しい」とされる点である。

  • この点に関して、2ndシーズン7代目菊丸英二役・黒羽麻璃央は次のように発言した。

    • <普通の舞台では正解は演出家ひとりが持っているものなんですが、2.5次元はもともと原作があるので『私の好きなこのキャラは、こんなテンションでこのセリフは言わない』とお客さん自身が正解を持っている。演出家の指示通りだとお客さんに受けない場合もあるし、演出家に違うと言われたものでもお客さんがやってほしいものもある。そのバランスが大事。だから怖いですよ>
       《出典:徳重辰典(2018)”自分を殺す瞬間も...紅白出場「刀剣男士」黒羽麻璃央が語る2.5次元の魅力と苦悩”〈https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181230-00010002-bfj-ent〉2018年12月31日アクセス 黒羽の発言》

  • 「テニモン」も「ミュキャス」も、原作を読み込んでいるという点では優劣はないはずであり、むしろ「ミュキャス」の方が「原作キャラ」について(かけた時間の量だけでなく、熟慮の質なども含むと)掘り下げている可能性があるにも拘らず、観客は時に問答無用でミュキャスに”解釈違い”の烙印を押す。

  • このような点から、原作ファン=観客の場合、観客とミュキャスの関係性は観客優位であると言える可能性が高い。


  • では「現役ミュキャス」が「卒業ミュキャス」となってからの観客との関係性はどうだろうか。

  • 「原作キャラ」と「ミュキャス」の関係の項で述べたように、ミュキャスはその公演期間を終えると「ミュキャスでなくなる」のではなく「卒業ミュキャスの仲間入りをする」。「ミュキャス」としてのラベルが完全にはがれてなくなることはない。

  • 卒業からの時間経過が多いだけでなく、そのキャリアから「テニモン」以外からの人気も十分獲得している斎藤工や城田優などの俳優でさえ、時折ミュキャス時代を振り返ることがある。すると「テニモン」はそれを見て歓喜する傾向が見られる。

  • また、卒業後に、次の代の公演を見に行くことも「テニモン」から喜ばれる。

  • つまり「卒業ミュキャス」は、「卒業ミュキャスとして過ごす様子を見せてあげる」状態となる。

  • ここまでの話を図として整理すると以下の通りになる。

「ミュキャス」の各段階と「テニモン」における関係性
  • このように、観客とミュキャスの関係は、単なる役者とファンの関係以上に複雑なものであると言える。

  • その関係は”内定→現役→卒業”という、先に述べたミュキャスとしての3段階の歩みに基づいて変化しながらも、半永久的に続いていく。

拾い切れていませんが「ミュキャスが原作キャラの誕生日を祝う」などもこの辺に含まれると思います。
0時ぴったりに祝うか、そもそも祝わないのか。内定・現役ミュキャスは割と「祝って当然」みたいな風潮にあったり、「卒業しても祝ってくれる」ことがテニモンにとってポジティブな体験に働いたり。

あと、考慮漏れ以前に実はこの章は一番削った部分が多く、その代表的なものはありていに言うと「ミュキャスから観客への認知(顔や存在を覚えられたりすること)」です。
当時はこのあたりもミュキャスとテニモンの関係の複雑さを深めていると述べていましたが、以下の理由から削除しました。
・一理あることもなくもないが、こういった場で公開するにはあまりにもセンシティブな話題である
・今となっては、「認知」を重視する層と「テニミュ文化」を重視する層は異なっている気がする(これが4th現在アップデートされただけで、執筆当時は割とこの辺りがかぶっていたのか……などは正直判別不可能です。)

この辺に関しては『理論で読むメディア文化』の第10章『〈スペクタクル〉な社会を生きる女性たちの自立化とその矛盾』にて面白い観点が述べられていますが、ジェンダー的な内容にの踏み込んでいるので引用はせずに書籍の紹介のみにとどめておきます。

2024年3月時点の筆者より注釈

全部を踏まえて”テニミュ文化”となっている

  • ここまで述べた「原作キャラ」「ミュキャス」「テニモン」の特徴と、それぞれが構築している関係性は、これまでも述べた通り原作の持つ特性やテニミュの公演形態などによって引き起こされる特有のものである。

  • そのため、これらの要素が独特の”テニミュ文化”として暗黙知として形成されていると考えられる。

何度も言いますが公演演出から感じられる「テニミュらしさ」みたいなものとはこの章では切り分けてしまっています。無念

2024年3月時点の筆者より注釈



恐らく読んでいてかなりとっ散らかっていたかと思います。すみません。まとめた自分もとっ散らかってるなと歯がゆくなりましたが、そのまま載せる
ことをお許しください。



一旦ここまで。次回に続く。


シリーズ共通:最後に

  • 引用する事実に誤りがあったり、引用元や引用の仕方に問題があった場合、こちらからご指摘ください。

  • 考慮漏れについて散々免責を書きましたが、以下の話とかは参考になるので、これもこちらから、ぜひ聞いてみたいです。(本記事への反映はしませんが、今後いろいろ考える参考にさせていただきます)

    • 思い出したエピソード:「そういえば、○○さんのトークではこんな話を言っていた」など

    • 他界隈の話:「この部分はテニミュだけじゃなくて○○の舞台文化でもある」など

  • 元文章は論文の体裁をとったものですが、論文自体は世間から絶対にアクセスできない場所に永久隔離されているので、似たような論文や記事があっても完全に無関係です。「この論文著者、この記事の筆者っぽい…」と思っても絶対に違うと思ってもらえればと思うので、それっぽい論文著者へのコンタクト等はお控えください!

  • あと、論文と言っても、査読もなく甘々のレビューだったので、ロジック・ストーリー構成が甘すぎるという点にも目をつぶっていただけると助かります。

長々とお読みいただき有難うございました。続きは以下↓
【第2章】運営側が”テニミュ文化”を意図して活用してきた、と思われた箇所・出来事について考える

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