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遠州の萩を求めて〜旧市歌の一考察(あるいは翁への反論)

2021年9月。緊急事態宣言が全国的に発出している頃の話である。

(わっさーとした萩に会いたい……わっさーとした萩に会いたい……)

春に比べると地味だが、秋もまた花の季節。コスモスに菊に彼岸花に秋薔薇に、そしてなんといっても秋の七草だ。「萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」と詠んだのは奈良時代の歌人・山上憶良。蛇足だがこの朝顔は我々がよく知る朝顔ではなく桔梗というのが有力である。それはさておき、この歌の最初に出てくる萩。実は『万葉集』の中で一番詠まれている植物なのだ。平安時代に編纂された我が国最初の勅撰和歌集『古今和歌集』以降、桜にとって代わられてしまったが、上代の日本人の心を鷲掴んでいた植物は萩である。マメ科らしい丸っこい葉っぱの連なりが枝垂れ、わっさーと広がり、秋風に揺れる様などはなかなかに趣がある。紫や白い小さな花をたくさん付けて、花をこぼして地面を染めていくのもいみじうあはれにをかし。

京都であれば梨木神社、常林寺、勝念寺、真如堂、上賀茂神社、法住寺など、萩の美しいスポットがある。が、私が現在寓する地は遠州・浜松市。県境を跨ぐ移動が制限される中で、彼の愛し花洛へ赴くのは難しい。という訳で近場で萩の花を求めることにしたのだ。

「萩の名所って知りませんか?」と浜松市出身の職場の同僚に聞いたところで残念ながら答えは来なかった。令和の世ではすっかりマイナーな植物になってしまった。仕方がないのでググる。文明の利器とは実に便利だ。桜と違って名所まとめサイトなどは見つからなかったが、遠州の小京都といわれる森町に「萩の寺」と呼ばれる場所がヒットした。その名は蓮華寺、今は天台宗の寺院だが奈良時代の僧・行基開創という古刹。……ほほう、遠州にこんな場所があったとは。行ってみると、わっさーとした萩の枝ぶりを見ることは叶ったが、残念ながら開花のタイミングは外したようでほとんど花を付けた萩はなかった。

(わっさーとした萩に会いたい……わっさーとした萩に会いたい……)

唱えていたら見つけてしまった。その名も「万葉の森公園」。『万葉集』に因んだ植物が植えられている公園である。この手の植物園はてっきり『万葉集』の本場・奈良県にしか存在しないと思ったが、浜松市にもあったとは。ここには萩のトンネルなるものがあり、竹で編まれたトンネル状の通り道を萩の花が左右からわっさーと覆っていた。最盛期は花の仄かな香りと優しい彩りを楽しめるらしいが、やはり花の盛りを逃してしまったらしく、私が行った日は花付きはまばらで寂しいものであった。

遠州・萩探訪だが、どうやら今年の花の時期を逃しているらしいと気づきだした頃、気になる情報を得た。なんと旧浜松市の「市の花」は萩だったのだ。気をつけて見れば、萩の葉っぱが描かれたマンホールが街中にあるではないか。明治・大正期の小説家である森鴎外が作詞した旧浜松市歌にも萩が登場していた。

「大宮人の旅衣 入りみだれけむ 萩原の」

普通、市歌というのはその土地の景観や名物や名産が織り込まれる。というと、咲き乱れる萩の原が浜松市にあるというのか。一体それは何処に?

旧市歌はこう続く。

「昔つばらにたづねつる 翁をしのべ書(ふみ)よまば」

この「翁」は江戸時代の浜松出身の国学者・賀茂真淵のこと。荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人」とされる浜松市が誇る偉人の一人だ。彼は「ただ万葉こそあれ」と言うほど『万葉集』が大好き。……成る程、万葉の森公園はここに繋がっていくのか。先に述べた通り『万葉集』で一番詠まれた植物は萩。だから、萩なのだろうか。あくまで浜松市の萩は歌枕的なイメージであり、萩原なぞ何処にも実在しないのだろうか。

少し調べると、この歌詞の出典がわかった。『万葉集』57番歌「引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓」、一般的に「引馬野(ひくまの)に にほふ榛原(はりはら)  入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに」と訓されるものだ。訳については諸説あるが、森鴎外、ひいては浜松市は、賀茂真淵が『万葉集遠江歌考』の中で「引馬野」を浜松市曳馬野、「榛原」を萩の原としている説を採用したようだ。……んん?榛が萩とな?

「榛」はカバノキ科ハンノキ属の落葉高木の榛木(はんのき)の古称とされる。この歌は詞書に、持統上皇が三河国(今の愛知県中東部)行幸の時に長忌寸奥麻呂が詠んだとある。史料として持統上皇が浜松へ入られた記録は見つかっていないが、浜松市は三河国の隣国なので、足を伸ばされた可能性はなきにしもあらず。勅選史書『続日本紀』を紐解けば行幸されたおおよその時期は旧暦10月10日以降とされる。今の暦でいえば11月中旬以降。榛を萩とするならば、萩の花期はとっくに終わっている。もちろん、萩黄葉(はぎもみじ)を詠んだ可能性を考慮する必要はあろう。実は『万葉集』で萩は花だけでなく、黄葉する葉についても多く詠まれている。楓が染まる晩秋の紅葉より早く、中秋に黄葉する萩の葉。古語の「にほふ」は嗅覚より視覚的要素が強く「美しく咲いている/美しく染まる」と訳すなれば「にほふ榛原」を「黄葉に染まる萩の原」とした賀茂真淵の考察は一見すんなり受け入れられそうだ。

けれども、旧暦10月は晩秋である。萩黄葉にしても時期が遅い。榛木は萩のように黄葉(紅葉)はしないが、秋に実をつけて緑の葉のまま晩秋に落葉し花をつける。その実だが、榛摺(はりずり)といって衣類の染色に使われていた。歌の下の句「衣にほはせ 旅のしるしに(衣を染めなさい、旅のしるしに)」とあるように榛は萩ではなく、やはり榛木ではないだろうか。

さらに愛知県にも「引馬野」に相当する土地がある。愛知県豊川市の引馬神社周辺。神社自体は900年代創建と、持統上皇から約200年後だが、ここにも件の歌を彫った万葉歌碑があるらしい。愛知県知立市の馬市跡もしかり。三河は古来から良馬の産地で、馬市が開かれ「ひくまの原」に馬が集められたという。それぞれの地域が「引馬野」の地を主張している。持統上皇が浜松市に入られた公式記録がなく、三河国で詠まれた歌だと詞書にある以上、「引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓」の「引馬野」は遠州ではなく愛知県とする方が自然かもしれない。……おおっと、これ以上の言及は旧浜松市歌の根底が覆されてしまう。

結論、浜松市の「翁」こと賀茂真淵の説はちょっとアヤシイ。遠州でわっさーな萩の原を見つけられなくても仕方ないと考えるに至ったのだった。

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茉莉
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