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「職人の器」との出会い

出会いは本当にたまたまだった。

当時、大阪で会社員をしていた私は、その日ひとり京都観光で清水寺への参道を上っていた。大学時代を京都で過ごしたこともあり、清水さんへは10の指では数えられないほど行っている。春の桜や、初夏の新緑、秋の紅葉など、季節の見せてくれる美しい姿を堪能したいという個人的理由は勿論、「京都に住んでいるの!?案内してよ!」とやってくる旧友、親戚のリクエストにも世界的観光地・清水寺はよくあがっていたからだ。

もう何回歩いたかわからない参道を上っていると、ふと、あるお店のショーウインドウが目に留まった。「宝散らし(宝尽くし、とも)」と呼ばれる吉祥柄の絵付けがされた茶碗、大皿、小皿、マグカップ、カップアンドソーサー……清水焼のお店である。清水焼は京都で焼かれる陶磁器で伝統工芸品のひとつでもある。ぶっちゃけこれが清水焼だという特徴はない。清水寺からほど近い五条坂界隈は、かつて多くの窯元があった。そこで作られたから清水焼。今は公害問題や手狭になった理由で五条坂から山科へ場所を移った窯元も多いが、清水寺の周辺にはお土産物用の清水焼を扱うお店は多々あった。ちゃわん坂と名前の付いた参道もあるくらいだ。

今まで特に清水焼へ興味を示したことはなかった。しかし、この日はショーウインドウに並ぶ器たちに「描かれた絵柄がなんか素敵だ!」と吸い寄せられたのである。数秒間立ち止まり、ガラス越しにささっと視線を泳がせる。値札探しだ。一体こういうものは幾らするのだろう。私の肝が小さいだけなのかもしれないが、ユニクロには気軽に入店できても、ハリー・ウィンストンには立ち入る勇気がない。どちらのお店も商品を買わずとも、立ち入って見るだけなら自由なはずなのだが。私は清水焼のお店を、自分の中のユニクロか、ハリーか、どちら寄りなのかを見極めようとした。けれども、残念ながら値札は見当たらない。そして、OPENの札が掛かっているにも関わらず店内は店員、顧客を含め、無人だった。入りにくさが半端ない。

数秒間立ち止まったものの、清水寺へと歩みを進めることにした。歩みながらも、例のお店が気になって仕方がなかった。参道には他にも清水焼を売るお店が何軒もある。日常使いに良さそうな、お手頃そうな、親しみやすい器たち。けれども、先のお店の器は親しみやすさより、品の良さがあった。そういえば、描かれていた絵柄は金で縁取りされていた。あれは食器洗い機や電子レンジNGだ。親しみやすい器たちに比べると、お値段も張るだろう。果たして私の経済力で買えるものだろうか。いや、買えなくてももう少し近くでしっかり見てみたい。清水寺からの帰りに、お店に立ち寄ることを決めたのであった。

*****

無人に見える店内へ入るべく、引き戸を開けた。すぐに奥からワイシャツに黒のスラックス姿の店主らしき小柄な爺が出てきた。髪に白いものが混じっているが、オールバックにきちっと固められ、少し日焼けした顔色はつやっつや。年齢とは裏腹に少年のようにくりくりした瞳が印象的な人だった。

「いらっしゃいませ。君は前の店に来た事があったかな」

「いえ、通りがかって。初めてです。あの窓側の作品が気になって」

「人違いか。いやすまない、年寄りなもので記憶力が。以前、≪地名≫に店があってね。数年前にここに移動して、住居兼店舗にしてね。あー、〇〇さんの作品か。はい、良く見ていってください」

店内には壁に沿って沢山の清水焼が並べられていた。それらをゆっくり眺めながら、窓際のお目当ての作品群の前に行った。

「素敵ですね……」

ほぅとため息をついた。やはり近くで眺めても素敵だった。打ち出の小づち、鍵、如意宝珠、七宝……こうした縁起の良い宝物が、白い陶器の上にランダムに描かれている。古典柄なのにモダンな感じがするのは、カラフルな色使いのせいだろう。緑、紫、ピンク、黄色、赤、水色、青……多色使いなのだが、ごちゃごちゃせず本当に上品。ああ、これが食卓にあったならば凄く豊かな気持ちになれるに違いない。触れても大丈夫と言われたので、そっと持ちやすそうなマグカップを手に取った。

「思ったより軽いです」

「せやろ、ぶ厚くて重いのはぶさいくや」

そんな話をしていた時、「いらっしゃいませ」の声と同時に奥様が店内へとやってきた。ご店主と同じく髪には白いものが混じっていたが、ふんわり立ち上げたショートヘアで、えびす様のようなにっこり顔、白い肌にローズピンクの口紅という品のいい奥様。手にはお茶とお菓子が置かれたお盆を持っていた。店内にある小さな机にそれらは並べられ、私は着座を進められたのだ。

私には初めての経験だったが、京都の老舗店は「お客様」にお茶を出す、と聞いたことがあった。え、待って、私、まだ買うかどうかわからないんだよ。それともこれを辞して帰れ、という「ぶぶづけ案件」の方なのか。困惑したが、二人からどうぞどうぞ、と椅子を進められ恐る恐る座った。

このお店の陶磁器は、何年も修行された職人の手作りであること、絵付けも手描きであること、ご店主が目利きで置くものを決めていること、焼く過程で付いてしまったちょっとした汚れも見逃さず、そうした品は店頭には置いていないこと(その代わり、ご店主がはねたB品は8月に行われる陶器市でお安く売っている)、等々こだわりを語ってくれた。

また、ご店主夫婦は元々は陶器製の工業部品を作る会社を営んでいたこと、若い頃は死に物狂いで働いていたが、時代の変化で会社を畳んだこと、第二の人生でかつての知識を活かして清水焼の小売りをやっていること、ただ、趣味みたいなもので、売り上げを立てたい訳ではないこと、この店構えも「入りにくい」感じをわざと出していて、ただの観光客はなるべく立ちらないようにしていること……そんな話までお二人は楽しそうに語ってくれた。

私が一目ぼれした職人さんの器の解説もあった。宝散らしのシリーズについて、他の図案、職人の人となり。……女性で、華やかで上品な図案、色とりどりだが落ち着いた色合いを得意とされているが、いつも作務衣姿でヘビースモーカーだという。値段についても教えてくれた。実は商品の裏に値札シールが貼ってあったのだ。価格帯は、マグカップで当時、諭吉先生がおひとりと英雄先生が何名か。

「百均でなんぼでも買える時代やからな。たまに観光客が入ってきてもなかなか売れへん。けど、東京の百貨店に持っていったらこの倍でも売れるなぁ。ひとつひとつ、作家さんの手作りのものやし。まぁ、うちは職人さんから直接買い付けるからこれでも安いねん」

コクコクと首を縦に振った。それはそうだ。ここに並ぶ品々は手作りで、しかもご店主の厳しい目利きを潜り抜けた逸品なのだ。高くても仕方がない。高くて当たり前だ。私はすっかり清水焼に夢中になっていた。……しかし、買うとなるとやはり高い。当時の私は、手取りにじゅうまんえんの一人暮らし。細々と貯金はしているが、決して余裕のある暮らしではない。むしろ、分相応なものだった。そんな私の空気を察したのか、

「ボーナスもらって、また買いにきたらええわ」

「せやせや、少しずつ集めたらええねん」

ご店主と奥様は朗らかに笑う。その日はお茶とお菓子を御馳走になって、何も買わず、お二人の笑顔に見送られてお店を後にした。

*****

それから数か月。

私は転職して大阪から京都へ移った。元々転職を検討中で、自分の中の予定より一か月遅れてしまったものの、なんとか希望の会社に内定をもらったのだ。前職と同じ営業職である。新しい会社で営業数字を初めてあげた週末、自分へのご褒美としてあの日一目ぼれした職人の大鉢(皿より深みのある器で大きいもの)を購入した。それを使う度に、百均のうつわでは感じられない、じわじわとした幸福感が胸に湧き上がる。私の人生に「職人のうつわ」の良さを教えてくれた素敵なご店主たちに感謝している。


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茉莉
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