「戦争映画が苦手」を深掘りしてみた
飛び交う弾丸、閃光、苦痛に歪む男たちの表情。
キリキリする胃の辺りを押さえつつ、映画『ミッドウェイ』を観てきた。
夫はCGてんこもりでドンガラガッシャン系映画を好む。『スター・ウォーズ』然り、ハリウッド版『ゴジラ』然り。私もこれでもかと叩きつける派手な作品は嫌いではない。しかし、『ミッドウェイ』である。どうしても授業で習った歴史の知識が、かつての大戦の悲劇の一コマなのだと抵抗を覚える。私一人なら絶対に観に行かないタイトルだ。
しなしながら、映画である時点で、史実とはいえフィクションなのだ。何故、抵抗を覚えるのか。
答えは瞬時に出た。私は日本史の授業は好きだったが、心から好きと言えるのは明治の文明開化の頃まで。天然色の世界が灰色掛かったような、軍靴の足音が聞こえてくる時代は苦手だった。遠い「物語」だった歴史が、「現実」とクロスオーバーするようで。否、クロスオーバーではなく、歴史は常に「現実」なのだけれども。近現代と呼ばれる歴史は途端、血が通い、生々しいものなる。そのにおいが堪えられないのだ。かつて、歴史は「時の勝者の歴史」であった。だが、史料が多く残る近現代は「勝者の歴史」も「敗者の歴史」もないまぜで存在する。リアリティが半端ない。だからだ。
途端に自分が酷く勝手に思えた。フィクションの戦争、フィクションの惨禍はエンターテインメントとして楽しんでいるのに、(史実を元にしたとはいえ)エンターテインメントとして作られたフィクションに心を痛めるなど、偽善も甚だしいように思えた。
「どうだった?思っていた通りだった?」
映画館を出てから、努めて明るいで夫に声を掛けた。
「面白かったな。ドンガラガッシャンや」
(面白い、か)
ぐったり疲れた私は自分の感想を述べる気力がなかった。社会科科目は地理を選択していたという夫にとって、果たして『ミッドウェイ』は『スター・ウォーズ』などのドンガラガッシャンと同等なのだろうか。それとも、語らないだけで、私同様に何か思うところがあるのか。
戦争とか平和といった類を全く考えずに生きていた訳ではない。むしろ18の頃まで長崎で生まれ育った私は教育の中で叩き込まれてきた。長崎県の学生は長崎原爆忌の8月9日、夏休みであるにも登校する。「平和集会」なる集いを行い、その時に授業中に調べ上げた戦争史や原爆の悲惨さについて発表し、戦争反対の歌を歌い、黙祷を捧げている……のは全国同じだと思っていたが、長崎県だけだと知って後に驚いた(広島出身者は、広島原爆忌に同様のことをしているようだったが)。大学の友人、会社の同僚達への聞き取りによれば全国多数の人は修学旅行で長崎か広島を訪れて、その時に戦争や原爆について学ぶ、というのがメジャーのようだった。ある意味、地域差だろうか。
なんにせよ、この胃のキリキリは健全だと思いたい。みんながみんなこれをエンターテインメントとして手放しで楽しめるようになったら、悲劇は繰り返される。軍靴の足音が再び聞こえてくる。そんな気がするのだ。