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宝宝『おい!サイコーに愛なんだが涙』をみる

 物語への所在なさ。そして、自分のことを「物語」ひいては「作品」という枠におしこめて語ることの不可能さについて考えていた。

 作品は、ムサビ(ムササビ美術学校)の卒業制作である、という設定で進められた。主人公の唯野の部屋が再現されたという舞台の中で、彼の中学時代から現在までの人生が、一人芝居によって回想される。

 作中では、唯野が「ハチミツとクローバー」が好きであると繰り返し語られる。また、唯野の高校時代の友人たちの恋愛模様は、ハチクロの単行本を人に見立てて演じられる。それは、まるで憧れていた世界の中の物語のように。
 しかし重要なのは、ハチクロの物語には自己を投影できる存在はいないと断言されることだ。男性として生きていた唯野は、女子にではなく友人の男子へ恋心を抱いていたからだ。

 加えて印象的だったのは、部屋に置かれた唯野の、油彩画とみられるキャンバスだった。これは、最後まで裏返されたままおかれ公開されない。キャンバスは、そこに描かれた唯野の気持ちを隠すよう(しかし、時折触れられ、不意に倒れそうになるのを気にしながら)扱われる。

 これまでつくられてきたもののなかにも、そして自分がいまつくっているもののなかにも、自分を見出せない。公開もできない。
 唯野は、常に物語や作品というフィクションと距離をとりながらも、それらに憧れを抱いているように見える。

 しかし、それは、後に恋人となる芸人の柴崎の影響によって様相を変える。彼は、荒削りの芸のなか、作品にならないながらも自己を表現し伝えようと画策し続ける。それは、フィクションという「嘘」を通さずに、自分の身をさらけ出す行為だといえるだろう。

 唯野が卒業制作で選択したのは、まず自分の人生を振り返り、そして他者に向けて語っていくことだった。
 これまでの物語には乗れない。まだなにをするべきかわからない。キャンバスを表にすることもできない。しかし、じぶんのこれまでを、自分の身を(恋人である芸人のように)晒すと決める。
 これはまさに、創作を始める、ということだと思う。第一回公演として、芯の通った作品だった。


(ゲイであると表明する柴崎に対し、唯野は最後まで、自分を表す語として「ゲイ」を使用しない。これもまた、これまで定められたものへの疑問と、それへの応答であるように思う。)

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