つかる/ふれる
少年に会いたいときがある。家から数秒歩けばたどり着く。日が落ちるぐらいになると、その銭湯に暖簾がかかる。マフラーをぐるぐる巻いて、財布と着替えを持って、サンダルを鳴らして行く。
いつも、三十代ぐらいの夫婦のどちらかが出迎えてくれる。家族経営のよう。近所の人、常連との会話も聞こえる。
湯船からあがり服を着て、入り口付近に戻った。ソファに座ってひとり、瓶の牛乳に口をつける。以前、そうしていたときに出会ったのが、小学校に入るか入らないかぐらいの、少年だった。この銭湯の一人息子らしかった。
彼は、段ボール製の小さな家を片手にある男の冒険譚を語ってくれた。次に会ったときには、折り紙でつくった花を手渡してくれた。常連の年齢層は高く、20代らしい人は見かけたことがなかったから、彼にとっても私の存在は物珍しかったのだろう。
あるとき、ぼんやりと会話をしながらふたりでテレビを見ていた。ふと、少年がこちらにもたれかかってきた。目線は、タレントの方へ向いたまま。布越しに伝わってくるあたたかさ。そこにある信頼に、浮かされそうになった。背中を預けるような仕草を無意識にできてしまう、素朴さにも。
だれかに触れるとき、その相手を考えないことなんかあっただろうか。視線をひとつ、おくるのにもわたしは相手に向き合って考えて選択しなければうまくできない。たとえその関係性に、崩れるところがなかったとしても。
酔った友人が、手を繋ぎたい、と甘えてきたときを思い出す。ふらふらと声をあげて笑いながらも、指をからめる仕草すべてに意識を向けていた。背中を支える腕にも、相手をみてほほえむ目にも。ただ自分がしたいからする、だけではなく、なんとかして相手の感情に入り込もうとしてしまう。「ふれる」行為はそのすべてだった。こちらから踏み込もうとすればするほど、何かにとらえられてしまう。積み重ねてきた経験も時間も、互いの間にあることはわかっているのに。改札前で、すぐ手も離してしまって、そのままだった。
幼い子ども特有の、あの体温の高さ。自分を思わずに、相手に介入していく強さ。おもいかえせば、そんなものを得ていた時期なんかなかった。ただ忘れたくなっただけなのかもしれないが。
銭湯のソファで膝を抱える。見知った人間はいない、湿ったままの髪。長風呂してしまったからだろうか、少年の姿もみえない。メイクもコンタクトもしていない。いま出会う人であれば、あるいは、とおもう。彼がそうしていたように、暖簾をくぐる人影を待つ。