【劇評】宮崎企画『忘れる滝の家』
『忘れる滝の家』は、青年団演出部/ムニの宮崎玲奈が手がける新作長編作品である。
アトリエ春風舎のブラックボックス。太く編み上げられた白いビニールロープが、まず目に飛び込んでくる。舞台上に横たえられたそれは、川のようにも、蛇のようにも見える。周辺には白い椅子がいくつか並べられ、机のような台座も置かれている。その上に白いヘッドホン、マグカップ。鍾乳洞のように天井から吊るされた円錐状の白く薄い布、そして床に並べられた靴。コウはひとり、この空間で手を叩く。俳優たちは一列に並び歩いて登場し、モノの中へ、とけこんでいく。
本作では、会話劇という日常に限りなく近い上演形式がとられる。その中で、SFという「非日常」をどのように表現するのか、というのが観劇前の期待と、疑問であった。
1980年東京、それなりに暮らすフミエ、アヤ、コウ。2019年東京、それなりに暮らすタナベ、ナツミ。40年前、40年後の世界を同時に描きながら物語は進んでいく。だが、まずもってそれぞれに生み出される会話自体に現実味がなかった。その感覚は時間の横断、という特徴から生まれるものではないようだった。では、何がそうさせていたのだろうか?
「それなりに暮らす」非日常の中で、それぞれの関係性が見えながらも、ぼんやりと世界は続いていく。
特筆したいのが、ヨシカワという人物についてである。彼はタナベの友人を名乗り、突然現れ、山へ行こうと言い始める。そうして彼はこれまでぼんやりと続いていた世界に輪郭をあたえはじめるのだ。彼の存在を初めとしたSF的要素が場に少しずつ増えていけば増えていくほど、世界がこちら側に、観客側に近づいてくる。
しかし彼はそうしながらも、最終的には世界から輪郭を与えられるのだった。「未来人」であった彼は、タナベが本当のタナベではないと主張するも、その予測は外れていく。新しく提示された要素にヨシカワは、驚きはするが、それに反発するのではなくまたただぼんやりと受け入れていく。
作・演出の宮崎玲奈は当日パンフレットにこう書いていた。「演劇の支持体はまなざしであると仮定する。集まること、眼差しの時代は終わったと言われている中で、まなざし、対話する演劇の意味。まなざすことは、他者と出会うこと、自身を知覚し直すことだ。」この意味で、ヨシカワ、そしてヨシカワを演じていた藤家矢麻刀の「まなざし」はそこにたしかに「ある」ものであった。
物語が進むにつれ、鮮明さがリアルさを支えているのか、それとも漠然とした「それなりの」会話がリアリティを持つのか、わからなくなっていく。「それなりの暮らし」というものがあたりまえではない世界では、SFは思いもよらない現実味を観客に与えていく。その事実が、「まなざし」とともに浮かび上がってくるのが、興味深く、おもしろい作品であった。
また、モノ(マシュマロ、拳銃、など)が、唐突に、文脈を飛び越えて、登場するのが印象的であった。マシュマロは人間の「記憶」として未来人たちの手によって人から取り出され、食される。はじめ舞台上に置かれていたモノと対比するように、人間から生み出される物体、として描かれるマシュマロは、同時に、モノを生み出すことができる人間という存在を支えていく。そこに立ち上がるのはより強固な日常ではないだろうか。
自分と年齢、立場が近いという点で、言及すべきはアヤ、ナツミであろうとは考える。受動的にならざるを得ない立場のなかで自身の意思を、世界をどう表し動かそうとしていくかということについて、彼女らとともに考えることもあった。
だが、登場する人物を、ひとりひとりを私たち観客は「まなざす」ことができる。全員の、ながれていくロードムービーを追って。重なっていく色と時間。そこに現れる景色をこわごわと、しかし心待ちにして眺める体験は、美しいものだった。
※宮崎企画、及び作・演出宮崎玲奈の「崎」は立つ崎(たつさき)が正式表記
(演劇情報サイトNeSTA上に掲載されたものを転載)