ベーシックインカムが労働意欲を阻害するかという問いに感じるうさん臭さと、新しい時代のベーシックインカムの条件
ベーシックインカムが労働意欲を阻害するとの声は多い。僕自身、3年前の「全成人に毎月8万円配布のベーシックインカムを提案する」の中では労働意欲の低下に注意する必要があると述べていた。
が、ほんとにそうなのだろうか。この問いについて、僕は当時とはだいぶ異なる感覚をもっている。
そもそも労働意欲という言葉に、うさん臭さを感じてしまうようになった。
少し前の投稿でも触れたが、今の時代はまだまだ前の時代からずっと引きずってきた慣習や考え方や制度が固い岩盤のような形で残り続けている。勤勉、忍耐、横並び、こういうものを美徳とするような頑迷な人たちと僕らは戦わなくてはいけないのだが、労働意欲という言葉にはこういう人たちが放つ臭いを感じずにはいられないのだ。
僕らは、労働意欲を持たなければならないという「常識」を押しつけられていないだろうか。労働意欲ありきの社会で生きることを強要されていないだろうか。
僕がいまの会社の中で、またスタートアップなどの若い組織で働く人たちとの交流を通じて感じる彼らのほとばしる情熱や熱狂は、到底、押しつけられた労働意欲のようなものではない。
また、僕自身子育てをしながら痛切に思うのだが、仕事と暮らしの比重は時と場合によって変わりうるし、変わるのが当たり前なのだ。にも拘わらず労働意欲が常にまとわりつくような社会は、とても不自由な社会だと感じる。
僕は、労働意欲というものが社会の前提として君臨していた時代はもう変わりつつあると思っているし、終わりにしなければならないと思っている。それは、すごく狭い歴史の一地点の産物だったのだ。
もちろん、労働意欲の多寡は引き続きなんらかの尺度として生き残るだろう。しかし、それはもう、社会の土台であってはならないのだ。
だから、そもそも問い自体を変えなくてはならない。ベーシックインカムが労働意欲を阻害するかどうかを論じている限り、僕らは次の時代の扉を開いたことにならない。もっと自由になるためのベーシックインカムになりえない。
新たな問いが必要だ。それは、ベーシックインカムが「好きなことで明日をつくる」ことを阻害していないかどうかだ。この新たな問いに応えられるベーシックインカムを構想していこうと思っている。
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