『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』を読む①~責任をまとった自由の強さ~
友人に勧められて『NO RULES 世界一「自由」な会社、NETFLIX』を読んだ。多くの示唆を得たので何回かにわたってシリーズで書いていきたい。
初回は、責任をまとった自由の強さについて。
自由にはいつだって責任という問題が付きまとう。両者の関係はとても緊張感があって、一歩間違えると自由=無責任=自己責任という血も涙もない社会が待っていたりする。僕はそんな自由には違和感を抱いていて、かつて「自由は自由でも、愛情や友情や感謝を伴う自由こそが素敵だと気付いた」という投稿でもそのことを書いた。
それでも、自由と責任の関係については霧が晴れない思いがあった。そんな中読んだ本書の中で、とても印象に残った箇所があったので少し長いが引用する。
より大きな自由を与えたことが、社員の当事者意識を高め、責任ある行動を促したのだ。それを受けて…私(ネットフリックスCEO)は「フリーダム&レスポンシビリティ(自由と責任)」という標語をつくった。会社には両方が必要というだけではない。両者はつながっているのだ。かつて私は自由は責任の対極にあると考えていたが、実際には自由は責任に至る道であることが、ようやくわかってきた。
本書では、この箇所を具体化するための数々の仕掛けが登場する。そして「責任に至る道」としての自由、僕なりに言い換えると「責任をまとった自由」がいかに組織を強くするかを繰り返し繰り返し訴える。
全ての組織にとって、ルールやコントロールといった統制的手法は必要不可欠な存在だと思われている。僕がこれまで所属した全ての組織でそれは存在した。
しかしそのような統制的手法は、メンバーの責任感・当事者意識向上を阻害する要因になりやすい。行政には総理大臣が、会社には社長が、学校のPTAには会長が存在し、その「長」の責任を頂点として責任は細分化されていくのが常だ。細切れになった責任の元では、責任感や当事者意識も同時に細切れになっていく。
組織のパフォーマンスを最大化するために、多くの「長」は責任感を持とう、当事者意識を持とうと呼びかける。しかし、自らがルールメイカーである「長」が呼び掛けたところでやはり限界がある。
ネットフリックスのノールールというルールは、この統制的手法とは真逆の、自由と責任の関係を再発見し実装したところに凄みがある。責任をまとった自由の元で、全てのプレイヤーの能力は最大化され、イノベーションの起点となっていく。
日本でも、スタートアップを中心に統制的ではない組織づくりを目指すスタイルが増えているように思う。また、社内起業や投資会社的経営なども責任をまとった自由への追求の一旦だと思う。
しかし、ネットフリックスのように組織体の隅々まで責任をまとった自由を追求する例はなかなか聞かない。前提条件が違うため同じようなスタイルがとれない、というのもある。
組織にとって、全ての構成員が能力を最大化できるかどうかは死活的に重要なテーマだ。それに対して、従来のコントロールという思想とは真逆の「自由」を突き詰めていくことが強い組織を作るための啓示を与えてくれるのは、とても興味深いことだと思う。
そして、これはネットフリックスという一つの企業に留まる話ではない。次回は、この挑戦が大きく広がったときの姿について考えていきたい。
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