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#事実と判断の狭間

「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」との言葉を引くのは2度目だ。以前の記事はこちら。
【note『事務局長の万年筆』】

私が誰かに伝えたいと思っている事は、やはりこの一点に尽きるのかも知れない。村上春樹のファンならばエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』に記されたリディア・シモンのこの言葉は印象的に記憶している事だろう。今回は「事実と判断の狭間」の話だ。
 
道に財布が落ちている。それを交番に届けるか自分のポケットに入れるのかはオプショナル(自分次第)だ。財布が落ちていたという事実と、それを交番に届ける、あるいは自分のポケットに入れるという判断の間で一体何が起きているのだろうか。
 
事実と判断の狭間にはマインドセットが介在している。マインドセットとはコンピューターで言えばInput/Output、つまり「入出力」であり、入って来た情報に対しどのようなレスポンスを返すのかと言うことだ。マインドセットの質(ありよう)が、その人の人となりを決める事になる。ではマインドセットの質は何によって決まるのだろう。そしてそれは変更可能なのだろうか。
 
マインドセットは育って来た環境や宗教、哲学、または教育や訓練によって涵養される。つまり後天的に変化させる事は可能だ。大谷翔平を育てた花巻東高校の佐々木監督が取り入れていた「マンダラチャート」はまさにマインドセットを作り上げるためのツールであった。
 
すべては自己責任、うっかりしているヤツが悪いという考え方をする人ならば平気で落ちていた財布を自分のポケットに入れてしまうかも知れない。落としてしまった人の困惑を心の痛みとして感じられる人であれば、すぐに交番に届けるだろう。もしも前者のようなマインドセットの人ばかり多ければ、ずいぶんと殺伐とした世の中になってしまう事だろう。何しろ全部「自己責任」「された人の責任」なのだから。世の中の住みやすさは、一人一人のマインドセット次第、マインドセットを作り上げる哲学や宗教次第、そして家庭や学校での教育次第である。
 
人をジャッジして論破した人間が賞賛される世の中だ。さらにそれがショーアップされて収益が上げられるシステムまで出来上がっている。人としての皮膚感覚はどこへ行ってしまったのだろうか。内部告発されたどこやらの知事は、さぞ優秀で仕事の出来た人だったのだろう。しかしその周囲で人命まで失われてしまった。人の困惑を心の痛みとして感じられるマインドセットがあったならば、きっとそのような事態は防げたのかも知れない。しかし私は昨今の風潮のように、この若い知事を直ちにジャッジして切り捨てて良いとは思っていない。繰り返すがマインドセットは後天的に変化させる事は可能だ。必要なことは変化へと導く道筋であり助力である。人は、必ず変わる事が出来る。

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