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31 コロンブスの弟子と賽の河原〜「どうせ」からの脱却

箱根駅伝は駒沢大学の劇的逆転優勝となった。先行者のスピードダウンも一因とはいえ、それによって勝利を得られる位置にいたと言う事が実力の証なのだろう。3分以上の差を「どうせ」駄目だからと現状維持に回れば優勝は無かったはずだ。
 
アメリカの小噺がある。ある主人がいる。これはコロンブスともナポレオンとも言われる。主人には弟子がいる。ある時、弟子が主人の靴磨きを怠った。「明日になればどうせ汚れるのだから磨かなかった」と言うのが弟子の言い分だ。昼になったが主人は弟子に昼食を与えなかった。弟子が問うと主人は「どうせ腹が減るのだから食わなくても良いだろう」と言った。

さて、人の行為は「どうせ」何かによって台無しになってしまうものなのだろうか?今日磨いた靴が明日汚れる。磨いたという事実は無駄だったのだろうか?「どうせ」何をやっても無駄なのだろうか。人は死ぬ。どうせ死ぬ。ではこの世で私たちが行う行為の意味はどこへ行ってしまうのだろうか。

今日の自分は昨日までの自分の行為の結果である。明日の自分は今日の自分の行為の結果として生まれる。今日の自分の行為はどこかに記録されて明日の自分の因となる。たとえ明日、靴が汚れようとも今日キレイに靴を磨いたという事実は「どこか」に記録されて明日の自分の因となっている。

命の奥に今の行動を記録するレコード盤(のようなもの)がある。若い人向けにフラッシュメモリーと言い換えても良い。呼吸も考え事も行いも、すべてがレコード盤に刻まれて、ふたたびそれが呼び出されて瞬間瞬間の自分が更新されて行く。更新された自分がさらに行動を重ね、それが記録される。そのようにして、人は良くもなり悪くもなって行く。靴を磨くあなたの住む街は、「靴を磨く人」が住む良い街である。それは街のレコード盤に刻まれる。

どうせ人は死ぬ。磨いた靴もどうせ汚れる。しかし命の奥のレコード盤に、そして社会という共同体のレコード盤に、あなたの行動の軌跡は確かに刻まれている。たとえ明日、靴がまた汚れようとも、靴を磨いた後の自分は「ひとつの靴を磨き上げた自分」であり、磨く前の自分とは確実に違う。人生は決して堂々巡りの賽の河原ではない。「どうせ」と行動を放棄してしまう事は、未来の可能性を自ら閉じてしまう愚かな行為である。3分以上の差を「どうせ」と諦めなかった駒沢大学に学ばなければならない。
新年、新たな自分のために、より良い選択を積み重ねる1日1日でありたい。

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