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21 戻れなくなった修行論

この年齢になって懸垂が出来るようになった。50代も半ばである。しかし気持ちだけは30代だ。噂だが自衛隊では懸垂が出来るようになるまで新人はしごかれると聞いたことがある。もしかしたら自衛隊に入れるかも知れないと思ったが、この年齢では入隊と同時に定年だ。
 
2020年春からのステイホームとやらで急速に体重が増加してしまったことで、同年7月から筋トレと食事管理を始めた。筋トレには中毒性があり、日々自分の身体の状態を変えて行くことが出来る実感は、ちょっとした全能感である。そうなると、もっとやってやろうとトレーニングに拍車がかかる。高校時代の部活ほどではないが、そこそこの強度のトレーニングである。家の中には筋トレ用のグッズが増えて行き、ダンベルが2種類、プッシュアップ(腕立て伏せ)用のバー、腹筋を鍛えるためのアブローラー、そして壁には懸垂用のチンニングバーが据え付けられ、玄関には縄跳びの縄が常備された。
 
いずれのトレーニングも始めた当初は自分の体をビクとも動かせなかったものだが、腹筋上級者の特権であると思い込んでいたアブローラーでの立ちコロが出来るに至り、今では自分には出来ないことなどないのだと過剰な全能感にさいなまれている。継続はまさしく力なのであった。
 
出来なかったことが出来るようになる瞬間は突然訪れる。それまでそこを目指してはいたものの乗り越えられなかった壁を、ふいに乗り越えてしまう瞬間。その瞬間を迎えるためには継続的にその事へ思いを寄せ続けていることが必要で、たとえばニュートンのリンゴとか宗教者の悟りであるとか、また武道者が師範から免許を皆伝される瞬間などもそれに近いのではないかと思っている。それは100mを11秒で走っていた人がトレーニングを積んで10秒台で走れるようになるのとは、ちょっと違う。いきなりの飛躍なのである。
 
幼いころ、ふいに自転車に乗れた瞬間の事を思い出している。4歳の頃だ。補助輪なしで乗れるようになったら新しい自転車を買ってあげると親に言われ、暗くなるまで練習した。辺りが闇に包まれようかという時、ふいに乗れた。視線を行き先だけに向けてこれで最後だと漕ぎ出した時、それまで練習して来た足の動かし方やバランスの取り方などの細部が自然に統合されて、私は自転車を漕いでいた。背後から母の「お父さん見て、ノリユキが乗れてるよ!」との声が聞こえていた。
 
今まで出来た事がない事を、誰かがやっているのを見てきっと自分にも出来るはずだと思い練習する。そこにはスジも論理も無い。あるのは自分にも出来るはずだとの根拠なき確信だけである。その結果得られるものは「これまでとは違うフェーズ」であり「成長」であり自身を統御する「これまでは知らなかったマインドセット」である。誰かとの競争でもなく、何かの大会を目指すわけでもない。それは自分自身へ向けた「修行」なのであった。
 
内田樹の『修業論』を引用してマインドセットについて語るつもりが、話がそれたまま元に戻れなくなってしまった。今回はここで終わる。
 
*今週の参考図書
 ・『修業論』
  内田樹 (著)  2013年/光文社

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