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22 理論物理学と半沢直樹

旧弊に敢然と立ち向かい次々と悪に倍返しする半沢直樹に熱中された方も多いことと思う。さしずめ現代の月光仮面か水戸黄門と言ったところか。所詮テレビドラマ、といって馬鹿にする事は出来ない。
 
以前、NHKの大河ドラマで『西郷どん』が放映され始めた頃、時代考証を担当された志學館大学の原口泉先生の講演会に出かけた。ドラマはあくまでドラマ性を優先させたファンタジーである、と言い置かれた上で「現在のJリーガーの多くがアニメ『キャプテン翼』を観てプロサッカー選手を志したように、ファンタジーかも知れない『西郷どん』を観て人生を動かす人だっているはずなんです」と。だから所詮テレビドラマだからと言って決して半沢直樹を馬鹿にしてはいけないのである。

実際のところ、未来がどうなるかなんて誰にもわからない。その「わからなさ」を論理的に説明した人に理論物理学者のフレッド・アラン・ウルフがいる。
 
--以下、引用--
 
僕たちの選択は、いかに論理的で意味があるように見えようが、つまるところ、物理学者たちが「相補変数」と称するものの組み合わせの一つにすぎない。実際こういった変数は、魔法のように強い影響を及ぼし、実際に僕たちの人生の過去、未来、そして現在の瞬間を変えていく。にもかかわらず、こうした観測がきわめて正常に見えるために、僕たちのほうが観測に振り回され、主導権を握れなくなってしまう。
 
--以上、引用おわり--【フレッド・アラン・ウルフ『大きく考えるための小さな本』より】

ややこしい話だが、量子―光子や電子―の世界では、観測された状態は、その観測者の状態によって「過去に遡って」状態を変化させる。 正しく言えば、原因と結果は共存している。
そこでは未来も現在も過去も、原因も結果も、あちらもこちらも、すべてが「ここ」にある。 「ここ」にあるものが同時に「あちら」にもあり、「これ」は同時に「全体」でもある。 現在の振舞いが過去の自分に影響を及ぼす。時間的にも距離的にも遠く離れたもの同士が感応しあう。
これは宗教の話ではない。量子物理学の話だ。

実は、この量子物理学の言葉と同じ内容のことが、大昔の仏教経典にも記されている。
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す 」
【小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)】

量子力学の先駆である3人のノーベル賞受賞者たち、ボーア、ハイゼンベルク、シュレーディンガーらが皆、東洋哲学にその発想の源を得ている事を考えれば不思議な事ではない。シュレーディンガーはこう言っている。
「量子力学の基礎になった波動方程式は、東洋の哲学の諸原理を記述している」

人の意思によって世界は現れる(変化する)というのが量子物理学と仏教両面からの見解だ。

『キャプテン翼』も『西郷どん』も『半沢直樹』も、計画的に未来へとヒモ付けられているわけではない。所詮ドラマだ。それらはただそこに置かれている「点」である。未来はそれらを観た人の意思によって、点と点が結ばれ線が引かれ裾野が切り開かれてた上に築かれていく。

・・今回は10年前にブログに記した読後感想を元に書き直した。
元ブログはこちら。
http://deli-days.jugem.jp/?eid=399

*今週の参考図書
・『大きく考えるための小さな本』フレッド・アラン・ウルフ  2008年/サンマーク出版

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