7 島暮らしのしあわせ(1) - 目指さなくてもよい、ということ -
離島で暮らしていると、「しょうがないや」と諦めることが多々ある。台風で船が止まり、待ちわびていた荷物が届かなかったり、ガソリンを含め物価が総じて内地より高かったり、リアル店舗に品数が少なかったり、携帯の電波が届きにくかったり。特に台風や物流に関しては、しょうがないや、と諦めるのである。なので、買い物先での品揃えはすべて巡り合わせであると割り切っている。
仕事でパソコンを見つめ続けていると、視力の状態が日々変化していくので、約2年おきにメガネを作り直すのだが、ひとつの店舗であれこれ迷わずにその場にあるフレームで決める。巡り合わせである。名古屋近郊で暮らしていた頃なら、気に入ったものが見つかるまでいくつも店舗を回った事だろう。しかし今は「こんなのを選んでみても面白いかな」と、その場のあり合わせを楽しむ。これが、島に来て覚えた「受容のしあわせ」である。受容は楽しい。自分にばかりこだわると、思考の幅が狭まる。巡り合わせを楽しむことで、新しい自分を発見できる。
樹木希林が映画の舞台挨拶に着物姿であらわれた時、同じ出席者に「この着物、古着屋で大正時代のものが千円だったの」と語った。千円というのが本当なのかどうかはともかく、年降ればそんな巡り合わせも楽しめるのだろうと私は思った。
島の人は島にあるもので暮らしている。それで間に合うのだ。島でも少しばかりお金を得た人が、高級車に乗りブランド物のスーツを着ているのを見かけるが、自分なりの文脈も無くありきたりの情報を元にパーツを組み合わせているだけなので、どこかの雑誌に載っている誰かのモノマネにしか見えない。所詮はスノッブである。本人だけが気づいていない。
「ウーニシモ シャーニシモ キリヤネン」とは奄美のことわざである。「上を見ても下を見てもキリがない」という意味だ。物欲は際限がないのだから身の丈で生活しなさいと、生活の知恵を伝えている。「見栄を張らず、欲張らず、贅沢しなければ、こんな良い住処はない」と島のオバァは言う。
「諦める」という言葉の語源は、「明きらめる」、物事を明らかに見る、という意味であり、仏教でいう「諦」とは明らかな真実・真理のことである。実に、島の暮らしには「諦」が満ちていてモノゴトの本質が明らかに、あぶり出されているように感じている。