3 壮大な避難訓練
1月15日は土曜日だったが、仕事の納品が済み疲労困憊で夜9時には床に就いた。スマホがけたたましく鳴ったのはそれから3時間ほど後だった。津波が来ますと表示されたスマホを眺めて、さて地震なんてあったかな?と思いつつ、NHKをつけた。奄美大島が赤く表示されている。その後すぐに、奄美市小湊で津波を観測、とのニュースが流れた。呆然とNHKを眺めている自分がいるこの集落である。テレビからの「第1波よりも第2波、第3波の方が大きい・・」との声を聴きながら妻を叩き起こし、起こされた妻が義母を起こしに行った。耳が遠く理解力も衰えた義母に状況を説明するのもひと苦労である。
「なんで奄美大島やねん」「なんで小湊やねん」「なんでピンポイントやねん」と思いながら服を着込む。南国とはいえ、冬の夜中はそれなりに冷えるのだ。私は免許証やクレジットカード、現金を入れたトラベラーズノートという多機能のノートを枕元に置いて寝る習慣がある。もちろんこういった場合に備えてである。これさえあれば何とかなる。上着を来たらそのノートだけをガシッと掴み、車へと向かう。義母がまだ妻に「何で行かなきゃならないの」などとグズっている。「手ぇ引っ張って来い!」と怒鳴った私の声を聞いて、義母もただ事では無いと気が付いた様子である。
普段はキャリーに入る事を嫌がる愛犬が、キャリーの扉を開けると「入るの?」という顔をしてすんなりと入ってくれた。それを車に乗せたら、やっと義母が家から出て来た。「隣のオバちゃんを・・」と妻と義母が言う。隣のオバちゃんは、義母以上に高齢で耳が遠く理解力も衰えていて、おまけに熟睡の最中だ。上着を着せて車に乗せるまでに10分は見積もらなくてはいけない。「いいから早く乗れ!」と言って車を出した。いつも愛犬を可愛がってくれる隣のオバちゃんに何かがあれば、それは私のせいだ。私は一生それを背負って行かなくてはいけない。私の脳裏には、東日本大震災の際、釜石市の子供たちを救った「津波てんでんこ」の言葉があった。津波の時は自分で自分の身を守る。人の心配はしない。
津波を想定してこれまでにやっていた避難訓練の通りに、指定の山道へ向かった。集落の人たちの車がまばらにやって来ていた。ほどよい場所で車を止めてラジオをつけた。地元のFM局が市街地の大渋滞を報じている。数分すると山を登ってくる車の量が増え始めた。
東日本大震災の時は日中だった。その時は義父も健在で、家族4人で山上へ逃げた。山の上から海岸線を見ると、普段は見ることが出来ないくらいの場所まで潮が引いていた。それが津波の前兆だった。東北の地震は奄美まで波を寄越していた。しかし今回はトンガだと言う。島の古い人たちは口々に「チリ沖地震の時を思い出すね」と言った。
義母が、車の中は息苦しいとため息ばかりつく。そして今度はオシッコがしたいと言い出した。妻が「どうする?」と私に聞く。なにしろ山の中である。冬なので毒蛇ハブの活動も鈍っている。「そのへんでするしかないだろ?」と答える。街中で渋滞にハマった人たちは大変だったようだ。
明け方まで山道の車中でで過ごして帰宅した。警報は注意報へと変わり、避難指示は解除された。島は何事も無かったかのように、日常へと戻った。
私たちは山の上への避難であったが、街中の避難所は大変だったと知人の消防団員がこぼしていた。自分の車、船、家が心配だからと戻ろうとする人、親が心配と助けに行く人、「みんな助けないと」と使命感を持って止まらない人、「どうして助けない!? 探さない!?」と声をあらげる人、仕事に行く人、「3時間たったから大丈夫でしょ」という人、「高齢で腰が痛いから帰る」という人。東日本大震災で何も学ばなかったのか。やはり自分の身を守ることが第一である。壮大な避難訓練となった。
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