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43 袖触れ合うも他生の縁

このnoteに置いてある一連の文章は、私の故郷である北海道佐呂間町の有志によるメルマガ「ほぼ週刊さろま」へ寄稿したものだ。基本的には寄稿したものをそもまま保管してあるが、今回は時間に追われ拙速な文章のまま寄稿してしまったため、追加、修正を加えてここに保管する。
以下。
 
NPOの理事長が民俗学の研究者であるため、私もわずかながら民俗学の袖に触れる機会があった。これまで国内の著名な民俗学者の名前だけは知っていたものの、そこを自分の踏み込むべき領域であると考えた事はなかった。しかし、この機会に現代民俗学の最先端を走る、関西大学の島村恭則教授による「民俗」の定義を読むに至って、自分が極めて民俗学的な思考の中で暮らしていた事に気づいた。島村教授による「民俗」の定義とはこうだ。
 
「民俗とは、『何らかの社会的コンテクストを共有する人びとの一人としての個人の生世界において、生み出され、生きられる経験・知識・表現で、とくに、啓蒙主義的合理性では必ずしも割り切ることのできない、あるいは覇権主義や普遍主義、主流的・中心的思考とは相入れない、意識・感情・感覚をそこに見出すことができるもの、もしくは見出すことができると予期されるもの』のことである。」【島村恭則・他 文化人類学と現代民俗学 2019/3/15 風響社】
 
島村氏は、「コンテクスト」についてこう記している。
「ここでいうコンテクストとは、文脈、脈絡、のことで、たとえば、地域、家族、親族、友人、学校、職業、宗教、宗派、エスニシティ、ジェンダー、階層、国家、時代、世代、社会問題、共通の関心など、さまざまなものが想定される。」【同上】
 
この「ほぼ週刊さろま」に8年間綴り続けて来た中で、私がもっとも多く使った言葉が、「文脈」「背景」「コンテクスト」だ。2020.09.09 第1051号にはこう綴った。
「文脈と言ってしまうと本質に対する枝葉末節といった意味に聞こえがちだが、物事や人とは分脈の集合体そのものであり、ルビンの壺のように影であり末節であるはずの物が、実は人や物事の実体、本質として浮かび上がるものなのだ」
 
2022.11.09 第1164号にはこう綴っている。
「一連の文章の中で、頻繁に『文脈』という言葉を使っている。『物事のなりたち』とか『背景』といった意味である。私が以前暮らしていた愛知県から奄美大島へ越してきて、約4,500日、12年と4ヶ月ほどが経過した。この12年の間に積み上げた、島の集落の人たちとの関係性とか、島での経験や行動、これらは私の文脈である。誰かが奪ったり、また奪われたりするものではない。ゆえに、文脈こそが私自身であり、私が私たるユニークな識別子でもある。家族にも文脈があり、集落にも、そして今暮らしている奄美大島にも、文脈がある」
 
グローバル・ビジネスの中で醸成された「普遍的な」理屈を押し付けてくる人たちに辟易した結果、私の中にはいつの間にかコンテクスト(背景・文脈)に注目する在り方が育っていた。
 
2022.08.17 第1152号では、そのような「普遍的な」理屈にもとづいた「改革」への危惧として、内田樹氏の言葉を引用した。
「今日本で進められているさまざまな『改革』は、あと何十年かすれば(できればあと何年かのうちにそうなればいいのですが)、『あんなことしなければよかった』と、みんながほぞを?むようなことばかりです。~中略~もちろん、50年後には、これらの失敗はちゃんと反省され、然るべき補正がなされていて、日本はまた順調に機能していると信じたいと思います。でも、日本人が自分たちの犯した失敗に気づくまでの間に、日本はどれだけのものを失うでしょう。美しく豊かな自然資源や、受け継がれてきた生活の知恵や伝統文化、日本人の心性に深く根づいた宗教性や感受性などの『見えざる資産』の多くは、一度失われてしまったら、再生することが困難なものです。目先の銭金やイデオロギー的な思い込みと引き替に、この列島の住民たちが千年以上をかけて丁寧に作り上げてきた、これらの『見えざる資産』が破壊されてゆくことを、僕は深く惜しむのです。」【内田樹 街場の共同体論 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.38-42). Kindle 版】
 
2022.06.15 第1143号では、人々の背景を無視する施策についてこう記した。
「文明が指向する『人それぞれ』の否定とは『業の否定』でありそれは、市井を生きる人々の感情にはそぐわない。コンサルタントに指導された為政者は天の上から文明的で画一的な施策を試みようとする。そう、ようやく今日語りたかったことに辿り着いた。元々は『私たち』共同体のために作り出された政治が、往々にして『人それぞれ』を押し潰す圧力になる。私は個人的にそれを『天の上からの声』と呼んでいる。『天の上からの声』は『人それぞれ』の網の目をすべて理解しているわけでは無い。だから、人はそれぞれに声を上げなければいけない。痛ければ痛いと叫ぶことだ。そうでなければそれぞれの『私』は押し潰されてしまう。」
 
振る舞いの精度とは、どれだけ細やかに物事の背景を観察・洞察しているかによる。これまで民俗学と自分の関係性を見出すことが出来ずにいたが、生活の精度を上げるための根拠・ファクト(fact・事実)の集積としてなら、自分が民俗学に足を踏み入れる理由としては十分なのではないかと感じている。

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