19 ユーミンから語り起こす、損をしない生き方
松任谷由実の「ノーサイド」は好きな歌のひとつだ。どこかゴールを目指そうと思えば、何かを犠牲にしなければならない。そんな一面の真実が歌詞に織り込まれている。ひとりの人間の内面だけの物語であれば、それは感動的な歌にもなる。しかし、複数の人が関わってくれば、同じテーマでも穏やかな話ではすまなくなる。
私の住まいから大手スーパーへ買い物に行こうと思うと、片道10kmを車で走る事になる。途中にはいくつかの集落があり、田舎の集落と言えばお年寄りだらけなのである。あるオバァは横断歩道がすぐそばにあるのに、行き交う車の間隙を縫って今にも飛び出そうと待ち構えている。自転車でフラフラとさまよっているオジィは突然、前触れもなくハンドルを切って車道を横切ろうとする。高齢ドライバーのヨタヨタと走る車は、見通しの悪いカーブの真ん中で左ウィンカーを出して「追い抜いて先に行け」と言う。「スーパーで買い物をする」というゴールを目指すには、途中でありとあらゆる艱難を乗り越えなければならない。もしここで、他人を犠牲にして自分のゴールを達成しようとすると、それは事故もしくは事件と呼ばれてしまう。
アンチエイジングという言葉がある。顔のシミを抜いたり、ややこしい名前のお手入れキットを通販で買ってシワを伸ばしたり。この場合、他人が阻害要因になる事はない。目指すゴールは若々しさを保つことだ。この時、自分の前に立ちはだかっている障害物とは「老化」という避けられない現実そのものである。
自分を押し通そうとした時、他人のみならず家族、そして老化や病気、自然環境や交通事情など、自分を取り巻く環境のすべてが、阻害要因となり得る。ドラえもんの道具に「どくさいスイッチ」というのがあって、思い通りにならずにヤケになったのび太が、「何もかも消えてしまえ!」と手を振り上げた時に誤ってスイッチに手が触れ、自分以外の他人がすべて消えてしまうという話がある。この時はタイムマシンでドラえもんが助けに来てくれた。
何を言いたいかといえば、他人や環境を邪魔だと感じてしまう、「私」のあり方そのものの誤りである。「私」という個人の欲求を満たそうと思えば、そこには目的を達成するために「利用できるもの」と「利用できないもの」つまり邪魔者が発生する。他人はすべて手段になってしまう。そこで主語を「私」から「私たち」に置き換えてみる。すると状況は一変する。集落のオジィもオバァも、ヨタヨタ運転の高齢ドライバーも、「私たち」である。「私たち」が安全に暮らすために、いったい何が必要なのか。問題は「私たち」の規模である。国単位の「私たち」が昔も今も、問題を起こし続けている。つまり国という単位の「私たち」では、まだ規模が小さいと言うことだ。
大きな「私たち」を実現するあり方として、ここで何度も触れた、心理学者・アドラーの語る「エネルゲイア的(現実活動態的)な生き方」がある。瞬間瞬間が目的でありゴールであり見せ場である在り方だ。そこではあらゆる環境や人が物語をかたち作る構成要素であり、邪魔者はなにひとつ無い。
老化は避けようもなく、そこにある。同じように、自分以外の他人も、自分を取り巻く環境も、避けようもなくそこにある。それらを敵に回すことは要らぬ苦労を背負うことであり、人生を無駄にしてしまう。何より自分にとって損である。
高齢ドライバーの運転が危ないのであれば、高齢者が運転せざるを得ない状況をどうにかしようと考えたい。オジィやオバァが道に出て来るなら、車のスピードを落とせば良い。それぞれの事情に耳を傾ける度量を持った時、自分自身が大きな「私たち」を生きていることに気づく事が出来る。
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