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#そんなふうに言うんじゃない

説明のつかない不思議な体験、一般的に「怪談」とか「怖い話」と言われてしまう体験を、私自身が多く体験し、また身近な人からの話を聞いている。
しかしそれらを「怪談」と呼んでしまうことには抵抗がある。それはあくまでも「不思議な体験」であって、決して怖い話ではない。
 
2018年10月31日の稿に、『呼び覚まされる霊性の震災学』(金菱清<ゼミナール>編 2016年 新曜社)について記した。
この書は、「震災による死」に人々はどう向き合い、感じてきたかをテーマに、東北学院大学の学生による卒業論文を集めたものだ。
 
東日本大震災の後、多くのタクシー運転手が幽霊体験をした。震災後、3ヶ月を過ぎた頃からそれらは現れ始めた。
 
初夏だ。季節外れのコート姿の女性が乗り込み、
「南浜まで」という。
「あそこはほとんど更地ですが構いませんか?」
と尋ねると、
「私は死んだのですか?」との声を残して女性は消えた。
 
8月の暑い夜、冬物のコート、マフラー、帽子を着けた小学生くらいの女の子を乗せた。深夜だったので不審に思った運転手が
「お父さんやお母さんは?」と聞くと、
「ひとりぼっちなの」と答える。迷子かも知れないと家の住所を尋ねて付近まで送ると、
「おじちゃんありがとう」と言ってタクシーを降り、その瞬間に姿を消した。確かに話をし、降りる時の手を取ってあげた。それは明らかに人であったと言う。
 
取材した学生が「幽霊」という言葉で彼らを呼ぶと、運転手たちは一様に「あの人たちはそんなものじゃない」「帰って来たんだ」と言った。怒りを見せて「そんなふうに言うんじゃない!」と怒鳴る運転手も数人いたと言う。
運転手たちに、またその様な人がいたらどうしますか?と聞くと、「もちろん乗せるよ」と答えた。
そこに見られた態度は、「恐れ」ではなく「畏敬」であった。
 
私が自分自身の体験を「怪談」と呼びたくはない理由も同じだ。この「ほぼ週刊さろま」へ寄稿した文章を保管している、記事コンテンツ発信サイト「note」の、不思議な体験を記した記事には便宜上、「怪談」というタグも付けてはいるが、本意ではない。
 
こういった不思議な話からは、人の根源的な思いや祈りの念を感じ取ることが出来る。
YouTubeや劇場で怪談を扱うコンテンツが人気になるのも、巷に溢れる下世話な噂話や広告、宣伝コンテンツを越えた先にある、人の根源的な部分への憧憬なのではないだろうか。

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