13 それならもうやってる。
奄美で暮らしていると、あの耳慣れた小噺を思い出さない日はない。有名な中南米の寓話だ。
海辺の村で都会から来たビジネスマンが休暇を過ごしている。すると一人の漁師が小舟で海から戻って来る。船には釣り上げた数匹の魚が入っていた。ビジネスマンが尋ねる。「それだけ釣るのに何時間かかるんだい?」「なあに、小一時間さ」と漁師が答える。「もっと長く漁をしてたくさん獲れば良いじゃないか」とビジネスマンが言うと、「俺の家族にはこれで十分だよ」と漁師は言う。「家に帰れば子どもと遊んで、午後にはカミさんと昼寝をする。夜になったら友人たちと一杯やって、一晩中、歌って踊るんだ」と。それにビジネスマンがしたり顔で答える。「僕は経営学の博士号を持っているからアドバイスしてやるよ。もっと長時間漁をして、たくさん魚を獲れ。金が貯まったら大きな漁船を買って会社を立ち上げる。缶詰工場を作って独自の流通網を構築する。その頃には本社を都会に移せるから、そこから支社を統括するんだ。時期を見て株式を上場し、自社株を売れば君は億万長者になれる」「それでどうなるんだい?」と漁師が尋ねるとビジネスマンは答える。「そうしたら海辺の小さな村にでも引っ越して悠々自適の生活をするさ。朝はのんびり釣りをして、午後からはカミさんと昼寝でもする。夜になったら友人たちと一杯やって、一晩中、歌って踊るんだ」と。それに漁師が笑いながら答える。「それならもうやってるよ」
豊かさって何だ?との問い掛けである。経済学の言葉で言えば商品的な「価値」と「富」の違いだ。儲かる事と豊かさは比例しない。都会では有名企業の社員である立場を失わないために心身を擦り減らし、自分の命を失う人もいる。いつか主催したフォーラムでは会場から、自分の夫が上場企業で働いている事を、滔々と語る参加者がいて辟易した。奄美の豊かな「富」の中でそんな都会の商品的「価値」は馴染まない。
たとえば、地元の人が自由に使えた砂浜が、企業に買い取られてリゾートホテルが建てられる。かつて地元の人たちがビールを持ち寄り楽しく集った憩いの場(富)が、企業に囲い込まれて商品(価値)になる。企業にとっての「価値」は増えるが、地域にとっての「富」は減る。これが資本主義の論理だ。法律にも反してはいない。企業側は言う。「私たちのホテルに泊まればゆっくりビールでも飲んで憩うことが出来ますよ」と。「それならもうやってるよ」と地元民は言うことだろう。
奄美には「それならもうやってるよ」が溢れている。都会から帰島したプロデューサー気取りが言う。「地域の人たちが助け合うシステムを作ろう。それでお金が回る仕組みを作れば素敵な助け合いの地域が出来上がるよ」と。わざわざシステムや仕組みなどを作らなくても、島の人たちは持続的に助け合っている。それならもうやってる。
この2年ほどで、私の暮らす小さな集落にも数件、都会からの転居者があった。都会で定年を迎え、のんびり釣りを楽しみながら暮らしたいと言う人、古い住居を買い取って自分たちで改装を楽しんでいる若い夫婦は、いつも浜辺をワンちゃんを連れて散歩している。いずれも「価値」に溢れた都会から、豊かさを求めて奄美へ越して来ている。
「コロナ禍」と呼ばれた時代が終わろうとしている。豊かさを求めて生き方を変える契機をつかむのも、スルーするのも、それはそれで自由なのである。