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47 来年の手帳選びをこじらせないために

応喚、という言葉を使ったのは文化人類学者の今福龍太だったろうか。ネットで「応喚」と検索しても何一つ手掛かりは無い。詩人の吉増剛造との対談・往復書簡集『アーキペラゴ―群島としての世界へ』の中だったろうかと、11年前にブログに書いたレビューを見てもそんな言葉は書いていない。きっと今福氏の主宰した「奄美自由大学」への招待文の中にあったのだろう。
 
なぜ突然「応喚」などという言葉に取り憑かれたのかと言えば、先々週、ここに書いた「空前絶後の手帳学」の中で、日頃の振り返り作業の事を「トラフィック処理」と表現してしまった事にちょっとした心残りがあったからだ。「トラフィック」では無いな・・と。ではもっと相応しい言葉があるのかと探っていたところ、唐突に「応喚」という言葉が脳裏に降って来た。本来の意味を調べるべく検索をしてみたものの、まったく手掛かりが無い。「応喚」などという言葉はどうやら存在しないらしい。そして今に至っている。きっと今福氏による造語なのだろう。喚(よ)び、応(こた)える。氏の主宰した奄美自由大学では毎回、テーマが設定されていたので、第何回目かのテーマの中のキーワードがきっと「応喚」だったのだと推測する。
 
タスク管理、スケジュール管理に必要な振り返り作業とは、単なる手帳やノートの上の作業なのではなく、交尾の季節に爬虫類の雌雄が呼び合うような、生身の自分と自分を取り囲む世界が互いに喚び応える、実に有機的な営みである。それはドライな「処理」ではなく湿度と体温のある「営み」だ。1日を終えたあと、1日分の行動によって派生した事実の群れを網羅して、自分の行きたい方角はどっちなんだと自分に問いかけながら、明日為すべき作業を組み立てる。手帳とかノートとは、そういった営みを助けてくれる伴走者であり、また営みの痕跡でもある。手帳を綺麗に書き上げたり飾り立てたりするのは自由だが、しかしそれは目的ではない。
 
まだ来年の手帳選びに迷っている人も多いだろう。基本は、コピーの裏紙をホッチキスで閉じたもので十分なのだ。そこを起点として、日々、自分と環境を有機的に構築し行くために最低限必要なものとは何なのかを問いながら、売り場を眺めて欲しい。過度に込み入ったフォーマットが組まれているものは、お勧めしない。
ちなみに私はロイヒトトゥルム1917を継続して使用している。手帳ではなく堅牢なノートだ。離島なので販売している店舗は無く、ネットで購入している。スケジュール表は手書き、つまりバレットジャーナルを実行している。自分としては今のところ、これが現実生活をスムーズに回すための一番のツールとなっている。

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